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空想垂れ流し 24.世界の敵(Aパート)

24.世界の敵(Aパート)

世界を敵に回せるか、と聞かれれば――答えはノーだ。
世界を敵に回す。
それは、およそ考えられ得る全てを敵に回すと言うことだ。

隣人を敵に回す。
家族を敵に回す。
友人を敵に回す。
大切なモノ全てを敵に回して――それを釈明することもないだろう。
世界を敵に回すと言うことは、未来そのものを敵に回す――或いは常識という“当然”を敵に回すと言うことだから。

恐れがあった。
覚悟も決意も何も無い私では、その恐れに抗うことは出来ない。
なのに――

――馬鹿馬鹿しい。何よ、それ。何で、貴方はソイツを“守ってるのよ”。

その言葉は私の胸を震わせた。
“守られた”――その事実に至った瞬間、胸の奥から燃えるような炎が湧き上がった。
それは誰の想いなのか――決まってる。“今の私”の想いではなく、“昔の私”の想い。

降り続ける雨が、頬を、髪を、服を――全てを濡らしていく。
漆黒の空には何も見えない。
光すら通らない漆黒の暗闇の中で、私はただ彼を見つめ続けていた。

24話「世界の敵になると言うこと」

降り続ける雨。
もう既に使われていない建物――下水道管理施設の中は、そこかしこに埃が積みあがっていたものの、思っていたよりも、ずっとまともな状態だった。
窓ガラスも割れていないし、雨漏りだってしていない。夜露を凌いで一晩を過ごすことは問題ない。
今も降り続き、止まないままの風雨を避けることが出来る。

「……これ、かな。」

月明かりだけを頼りに電気のスイッチを押すが、電気はつかない。
既に使われていないのだから、電気の供給が止められているのも当然か。
同じ理由で水道もトイレも使えないだろう。

(……別に一晩くらいの話だから、問題無い、か。)

背中に背負った彼に意識を向ける。
ここまで背負ってきて分かったが――体型に比べて彼の体はかなり重かった。
女性と男性という違いはあるのだろうけど、ここまで重いとは思わなかった。
ゴツゴツとした肉体は、触れただけで鍛え上げられたことを理解させる――鉛のように重い身体。
こういった肉体になるには、それ相応の訓練が必要となる。
魔導師としての訓練は特に肉体を鍛える必要がある訳ではない。
筋力というモノはあるに越したことは無いが、魔導師にとって必須、という訳ではないからだ。
けれど――ティアナやスバル、キャロから聞いた話だ。彼が行なってきた訓練とは、馬鹿みたいに基礎を繰り返すことだったと言う。
魔法も、恐らくは戦闘技術そのものも。
元々は魔導師でも無い、単なる機械兵器のパイロットであることを考えれば――果たして、どれほどの訓練を課してきたのだろうか。
あどけない寝顔――時折、うなされているのは痛みのせいか、それとも何かしら夢でも見ているのか――彼の頭の中を覗けない自分には分からない。
それが、少しだけ辛い――

「……何、考えてるの、私。」

脳裏に写りこむ思考が侵されていることを実感する。
焦燥が心を、情念が肉体を、恋慕が意識を、侵食し、染め上げていく。
私が私でなくなっていく実感。
その実感に怯えとおぞましさを感じながら、心地良さすら感じてしまう自分。
ギンガに先ほど言った言葉さえ、薄っぺらく感じる。
本当に――何とも思っていないのに、どうして私はこんなにもこの人のことが――

「……う」

背中に背負った彼が呻き――うなされているような声を上げた。
そんな彼に私は、優しく、優しく告げる――その優しさは別に好意から切り離されたモノであると、自己弁護を繰り返しながら。

「……今、寝かせてあげますから。もう少し、待っていてください。」

背負った彼の方に目をやる。
肩口に彼の顔を置いた吐息のかかる距離――無造作に伸ばした前髪が私の耳にかかり、少しだけこそばゆい。
その額が私の肩に触れる――脂汗を流している。
荒い吐息。
うなされるような声。
脇腹と背中が痛むのだろう。
私とギンガの攻撃の間に入り込み、どちらの攻撃も不完全とは言え受けたのだ。辛うじて非殺傷設定を継続していたとは言え――その痛みは相当なモノのはずだ。
骨折程度はしている。そんな確信さえあった。

非殺傷設定とはあくまで魔法である。
物理的損傷を、魔力値への損傷に切り替える魔法である。
基本的にこの場合、対象に物理的損傷は生まれないが――対象の魔力を削るのだから、削り切った場合、それ相応の衝撃や痛みは生じる。
衝撃や痛みが生じる以上は外傷が発生するのは当然の摂理でもある。
私が、シンを――斬ってしまった時、彼はバリアジャケットすら展開していなかった。
本来、感じてはいけないはずの手応えを感じたのは、その為だ。
この両手に感じたのだ、彼を、シンを切り裂いた瞬間――硬いモノが触れる手応えが。
その時のことを思い出し、私は唇を知らず噛んでいた。
手応えは苦々しさを感じさせる――ギンガを守ろうとした彼を斬った手応え。
苦々しさを感じることが辛かった。
おかしくなった自分。それが、取り返しのつかないところにまで忍び寄っているようで怖かった。

「シ……アスカさん、今、ソファーに下ろしますから。」

シン、と言いかけて、アスカさんと言い直す。
唇を歪めて苦笑――或いは嘲笑する。本当に、無様だ。
あれほど、何度も何度も心の中で、過去の自分を嫌っていたと言うのに――触れただけで、僅かに抱き締められただけで、これだ。
最低な女。最低な親。本当に――最低すぎる。

溜め息を吐いて――頭を切り替える。考えても仕方の無いことだ。本当に、考えるだけ意味が無いこと。

彼を背負ったまま、ソファーの表面を私の服の袖で軽くふき取る――袖口が埃塗れになり、ソファーの表面が少しだけ綺麗になった。
呻きを上げて、うなされている彼をソファーに下ろしていく。
ソファーに汚れは今だ残っているが――この際、それは仕方ない。

「……ん……よ、と。」
「……ふぇい、と……さん?」

ソファーに下ろす時の衝撃で目が覚めたのか、シンが瞳を開けて私を見ていた。
朱い瞳は未だ虚ろな輝きで――ここがどこなのかも良く分かっていないのだろう。

「ここ、は……」
「近くにあった、もう使われてない建物――多分、下水の管理施設だと思います。」

私の言葉で、彼の瞳に輝きが徐々に戻り出し――顔を歪めた。

「……痛みますか?」
「大したこと、ない、です……よ。」

苦痛に顔を歪めて右脇腹を彼は抑えている。
痛むのだろう――額から流れる汗は多分冷や汗。
熱があるのかもしれない――もし、骨折したのだとすれば、大いにありうる話だ。
私は彼に向けていた視線を付近一帯に向ける。
どこに何があるのかは分からない。
電気が切れている以上は、恐らく水道も切れているだろうけど――それでも探さないわけにはいかない。
骨折しているのだとすれば、冷やさなければいけない。
どれほどに魔法を使いこなすことが出来ようとも、治癒などは基本的に患者の自己治癒力に依存する――負傷を完全に治すことなど出来ないのだ。
そうして、周りを見回していると、彼の呟きが聞こえた。
見れば、ソファーの背もたれに体重をかけるようにして、身体を起こしている。

「アスカさん、無理しないでくだ……」
「……ギンガ、さん、は」

私の声を遮るように彼が呟いた。
瞳は真剣な色合い。笑うことなど決して出来ない、一心不乱そのものと言った光。

「ギンガ、ですか。」
「俺が、気絶してから……ギンガさんは、どうなったんですか。」

真剣な言葉。どこか焦燥感すら漂わせる彼の声。
その声を聞く度に胸が切り刻まれていくような錯覚すら覚える。

――ソイツに伝えておいて。次に会う時はまた“元の私”だと思うけど

思い起こす先ほどの彼女。
儚げに、幻のように、消えていくその紅い唇が動いた。
年齢に似合わない艶やかさを忍ばせた表情――何もかもが変わり過ぎていた彼女。
それは誰にとっても同じなのだろう。
彼も――シンも同じく、困惑していた。

――多分、その時が最後だから。優しく、してね、って。

去り際に寂しそうな横顔の彼女が言った言葉。

――次に会う時は“元の私”。
――その時が“最後”だから。

その言葉の意味は私には分からない。
何が“最後”で、何が“元の私”なのか――私には何も分からない。

「……ギンガは。」

私の呟きに呼応して、彼の朱い瞳に力が籠った。
ギンガのことを思い出しているのだろうか――昏い感情が胸の奥で蠢き出す。
理性や常識はギンガが残した言葉を彼に――シン・アスカに伝えるべきだと伝達してくる。

「ギンガさんは……どう、なったんですか。」

――それは炎に薪をくべるようなモノだ、と思った。
シン・アスカという炎に、ギンガ・ナカジマという薪をくべると言うこと。
伝えれば、彼は突き進む。踏み越える。決して止まらない――止まらない覚悟を完了させ、完結させるまで彼はきっと止まらない。
それは、目的を目標と据えたならば、絶対に必要不可欠なことだ。
目的――世界を救うこと。その為の方法として、私たちは――ギルバート・デュランダルはギンガ・ナカジマを救い出すと言うことを選択した。
スバルは姉を救う為――姉は生贄になる。そんなことを言われて黙っていられる訳が無い
ティアナも同じく――彼女はそういったことが大嫌いと言う性分によるものもあるかもしれない。
キャロは――それがもっともエリオを救い出す近道だと思っているからだろう。
だから、伝えればいい――否、伝えなければいけない。
なのに、私はどうしても――それを伝えられないでいる。

「……。」
「フェイトさん……?」

黙り込んで、次に伝えるべき言葉を探す――言わなければいけない言葉は分かっているのに、言葉を探しているのは何故なのか。
心の中で鳴り響く不協和音。噛み合わない歯車。

「ギンガは……ここには、いません。一人で、戻っていきました。」

一心不乱にこちらを見ていた彼の表情が、一瞬で四変する。
眼を見開き口を開け何かを言おうとして、何も言わないまま口を閉じて俯いて、一瞬瞳を閉じて奥歯を噛み締めて、ゆっくりと顔を上げてこちらを見つめ直し口を開いた。

「……そう、ですか。」

吐き出した言葉は、多分幾つもの感情を混ぜ合わせたモノなのだろう。
痛みと苦さを堪えたような彼の顔の翳り――そんな混沌を示していた。

「……っ」

胸に痛み。ずきん、と――私は一体何をしているのだろうか。
言うべきなのに。言えばいいのに。言わなきゃいけないのに。
何も言えない――言葉を口に上らせて、彼女の言葉を伝えれば、きっと彼は奮い立つと言うのに。
私は、何も言えない。口を動かせない。動かせないことがどうしようもなく罪悪感を軋ませて、動かそうとする度に胸が軋んで痛んで何も出来ない。
寂しそうな彼の顔。
何か――多分ギンガを取り戻せなかったことを悔やむ彼の顔。
その顔を見ると、胸が高鳴る。どうして高鳴っているのかは何も分からない――嘘、本当は分かっているはずだ。

(煩い。)

心中で誰かが囁く――その誰かも当然、私。
“私”が“私”に向けて囁いている。

――あなたがどうであろうと私はシンのことが好き。

煩い、黙れ。私はそんなことを思っていない。

――抱き締められて嬉しかった。抱き締めることが出来て嬉しかった。

煩い、黙れ。私はそんなこと、どうだっていいんだ。

――本当はあなたも気付いているはずよ。だって、“あなた”であろうと“私”であろうと関係無い。私はあなた。あなたは私。どちらの声も、同じモノが囁いてる一人芝居なんだから。

奥歯を、強く、割れんばかりに――割れろとばかりに噛み締めた。
全身の筋肉が強張っていく。
視界が真っ赤に染まっていく。
悔しさと悲しさと――誰に向けるべきか分かっているのに、向けてはいけない“愛しさ”で。

彼が、全身の力を抜いて、息を吐いた――表情が緩んでいた。先程までの何かを押し殺したような表情はそこには無い。
あるのは柔和で穏やかな――“いつもの彼の表情”。

「……ま、仕方ないですよ。デバイスも無しにギンガさんを取り戻せるなんて思っちゃいなかったですし。それに、二人共に怪我が無くて良かった。」

私の全身を一瞥し、彼はそう穏やかに語り、ソファーに寝そべっていく。
少しだけ、その動作は不自然で――そこで、気付く。彼が腹部と脇腹を庇っていることに。
痛みがあるのだろう。私とギンガの攻撃を受けたせいで。
腹筋か背筋のどちらか――或いは両方を痛めているのかもしれない。

「……大丈夫、ですか。」
「かすり傷ですよ、こんなの。 大丈夫、一晩寝れば、治りますから。」

私に心配をかけないように、私に後ろめたさを感じさせないように――彼は笑う。大丈夫だと。
優しく――笑っていた。
私には少しそれが理解出来ない――だって、この人はきっと、彼女を――ギンガのことが好きなのだろうに、どうして、この人はこんな風に笑えるのだろうか。
あんな風にされてしまったギンガ。
私の知ってる彼女とはまるで違うギンガ。
何が起きたのか――何をされたのか。
何も分からないけれど、それがまともなことではないだけ理解出来る。
笑うことなど出来るはずが無い――私なら、多分無理だ。
だから、不思議で――悲しくて――胸が軋んで――私は千々に滅裂する。

――突然、眼前に彼の顔があった。吐息の触れ合えない微妙な遠距離。近くて遠い壁がそこにあるような距離。

「ひゃぁっ!?」
「あ、ちょ、すいません、フェイトさ……」

彼がいきなり近づいたことで驚きの声を上げた私から急激に離れようとして――いきなり彼が顔を歪めた。
動いた拍子に激痛が走ったのか、反射的に腹部に手をやる――寸前で押し留まり、無理矢理笑顔を作って、奥歯を噛み締めていた。
痛みを堪えている、のだ。

「あ、アスカ、さん……?」

息が荒くなって、彼の全身が震える。
ぶるぶると震えて、それでも笑って、どう見ても痛そうと言うか喋るのも億劫そう――本人は隠しているつもりなのかもしれないが、まるで隠しきれていない――というか、普通に痛そうだ。

「…ちょ、ちょっと……あっち、行ってて…もらっても、いい……です、か?」

脂汗すら流しながら彼が呟いた。
見るからに痛そうな表情――顔面は蒼白で、流れる汗は秒を追うごとに増えていく。眼は血走って、笑っている表情との乖離が甚だしい。

「……あっち?」
「あ、あっちです、あっち。」

彼が右手の人さし指でその方向を指し示す――指の先には扉があった。別室へと繋がる扉が。

「アスカさん、何を……?」
「い、いや、着替えようかと思って、ですね。」

表情に焦燥がありありと浮かび、脂汗が更に流れ出ていく――何か嫌な予感がした。

「……服、脱いでください。」
「いや、だから、その為にちょっとあっちに行ってて――あぎゃぁっ!?」

彼の脇腹に手を当てる。
熱い。先程よりもはるかに熱くなって、皮膚が弾力を失うほどに、腫れ上がっている。

「良いから、脱ぎなさ……う、わ。」

無理矢理、彼の服を脱がせていく。薄手のTシャツ一枚を脱がせれば、右脇腹が赤く腫れ上がり、左脇腹から腹部に向けて走る巨大な蚯蚓腫れがあった。その付近の皮膚は青黒く――内出血を起こしている。

「……ひど、い。」

非殺傷設定とは、単に物理損傷を魔力損傷に置換するだけの魔法であり、損傷を無効化するような――そんなお伽噺の魔法では無い。
その置換限界を超えれば、当然、余剰分の威力は魔力損傷では無く物理損傷として、顕現する。
また、彼は、あの時バリアジャケットを纏っていなかった。
それはバリアジャケットによる減衰が全く行われなかったことを意味する。
バリアジャケットによる減衰が行われることもなく、攻撃を受ければ、その際に受けるダメージは加速度的に増大して行く。
そして、最後に――彼はあの瞬間、両手に魔力を集中していたはずだ。魔力を一か所――或いは複数個所に集中すると言うことは、当然集中している箇所以外への魔力供給は滞っていることになる。
バリアジャケットによる減衰が行われなかったこと。
魔力を集中していた箇所以外への攻撃。
放たれた攻撃はどちらも一撃必殺の威力。
その結果、シン・アスカの腹部は――見るも無残に腫れていた。
内臓の損傷はしていない――それすらも恐らくであって、確実ではない。
それを行ったのは私とギンガ――ここまで彼の身体に傷をつけてしまったのは、私と彼女なのだ。
罪悪感が迸る。焦燥する。こんな傷を作らせてしまった自分自身への罪悪感と焦燥。
胸を掻き毟るような衝動が私の頬を歪ませる。瞳を歪め、頬を崩して、私はどうするべきかを思案する――本当なら直ぐにでも病院に連れていかなければいけないような傷なのだ。
計画も目的も何もかもを一切合切取り払って、彼を病院へ連れて――そこまで考えて、彼がこちらを見ていることに気付いた。その顔は、これだけの傷を負っても、まだ笑っているのだ。
困ったように、笑っている――その表情が、何よりも苛立たしかった。

「……アスカさん、そこに寝てください。」
「いや、フェイトさん、本当に大丈夫ですから、フェイトさんは――」

笑顔のまま彼は私を何とか引き離して一人になろうとする。
その仕草にどうしようも無く腹が立っていく。苛立ちが募っていく。どうして、この人は私のいうことを聞いてくれないのか。自分でも分かっているはずだ――これが、どれだけの怪我なのかを。
それでも彼は一人になりたがる。一人で何が出来ると言う訳でもないのに、どうして、この人は――

「俺は、本当に大丈夫ですから。だから、少しだけ一人にさせて――」

何かが弾け飛んだ。一人にさせて欲しいと言う彼の言葉が、私の心のどこかに触れたのか、次の瞬間、私は叫んでいた。

「――言う事を聞きなさい、“シン”!!」

しんとした静寂と、黙り込んだ沈黙が交錯する。
シンは何を言われたのか、分かっていないような呆けた顔で――私は息を切らして、彼を見つめていた。

「大丈夫な訳がないでしょう!? こんな怪我して、まだ、大丈夫だなんて――何、考えてるのよ!」

迸りは収まらない。涙が毀れそうになる。涙は彼が言う事を聞いてくれない悲しさと、そこまでして私を関わらせないようにする彼の意固地っぷりに――悲しくて腹が立って、どうしようもない。
呆けた彼の手を握り締めて――きつく、握り締めて、懇願するように、“叫んだ”。

「今だけで良いから――私の言うことを聞いて、お願い……!!」
「……フェイト、さん。」

呆けた彼が、瞳を逸らした。
心無しか、その頬が赤面しているように見えた。
震えている――瞳は絶対に私に見せないように俯いて、震えていた。
握り締めた手が、熱い。

「……分かり、ましたよ。」
「……“アスカ”、さん?」

声色が少しだけおかしい――何かあったのか、と彼に近づく。
彼が顔を逸らした。
逸らす寸前、彼の口元が見えた――それは、笑っているようにも、どこか拗ねているようにも見えた。

「……アスカさん? どうかしたんですか?」
「……ホント、何でもないですから。」

彼は決して顔を見せようとしない――けれど、それまでとは違い、こちらの魔法を拒否する訳ではなく、ただ顔を見せたくないだけなようだった。
そんな彼を訝しげに思いつつ、私は彼の前に跪く。

「……それじゃ、今から、治癒魔法やってみます……いいですね?」
「あ、ああ、分かり、ました。」

睨みつけて、そう言った私に彼は少しだけ嬉しげに――どうして嬉しいのかはまるで分からない――頷いた。
右手から魔法を発動――フィジカルヒール。それほど得意な分野ではないが、この際仕方ない。やらないよりは、よほどマシだ。
発動した魔法で彼に触れる――治癒魔法と言っても要は新陳代謝の活性化によって通常の速度よりも早く治癒を行うと言う魔法である。

「……フェイトさん。」
「何ですか。」
「……やっぱり、フェイトさんは――フェイトさんですね。」
「? 何のことですか?」
「……いや、ありがとう、ございます。」

意味の分からない彼の言葉――どうしてか、それを嬉しいと感じてしまう。
彼の皮膚に触れる。熱を持ち、大きく腫れ上がった脇腹。触れたことで、激痛が走ったのか、小さな呻き声と共に全身が一瞬震えた。
彼は先程と変わることなく、顔を逸らし、決して顔を私には見せないでいた。頬が不自然に膨らんでいる――多分、痛みを堪える為に歯を食い縛っているのだろう。

「……少しの間ですから、動かないでいてください。」
「は、い。」

途切れかけた言葉を繋ぎ止めて彼が呟き――目を閉じた。そのまま背もたれに体重をかけていく。もう、身体を支えていることも辛いのだろう。
少しの間と告げたが、実際どれほどの時間が必要になるのかは分からない――出来れば、眠ってもらった方がいい。
そう、思い、バルディッシュへ念話を繋げ、彼には気付かれないように新たな魔法を構築する。
新たに構築する魔法――対象を眠らせる魔法。催眠などとは違う、単純に睡眠を誘発させる魔法――ある意味では子守唄のようなものだ。

「……」

瞳を閉じて、苦しそうな表情を浮かべていたシンの顔が少しだけ穏やかになっていく。
口は半開きになり、全身の力が抜けていって――十数秒後、吐息は寝息に変わっていく。
フィジカルヒールは今も継続したまま。
怪我の状態からして、そうそう簡単に治るものではないのは分かっている。
眠りは浅く――そして、深くなる。
穏やかな吐息。時折、苦しげに呻きを上げるものの――苦しげな様子はそれほど長く続く訳でもない。
窓から差し込む月明かりが室内を照らしている。
輝く月の光。どこか寒さを感じさせる輝き。
触れ合った掌から感じられる熱は少しずつではあるものの収まってきていた。
思っていたよりも早く魔法の効果があったのだろう――十分ほどで彼の寝息に苦しげなものが混じることは無くなった。
室内に据え付けられたまま放置された――取り外されるのを忘れられたのだろう時計の刻む秒針の音。静謐な室内の中で、その秒針と彼の吐息だけが響いていく。

「……昔の私もこんなことしてたのかな。」

穏やかに眠る彼の寝顔を見ながら、私は呟いた。
彼が意識を失っていることを確認して――彼に声が届かないことを確信して、だ。
独白、と言うほどに大それたものではないが、ただ、言葉を吐き出していく。
多分、自分の中にある色々なモノを整理する為だけの言葉。

「……昔の私は、どうして、この人のことを……好きになったんだろう。」

少し前に呟いた自問を再度呟く。
過去の自分。今とはまるで違う自分。エリオのことを忘れていた最低の自分。
落ちつくことで浮かび上がる彼のこと。
けれど、それはもう変質している。触れ合ったことで、侵されて変質したことを実感する。

フェイト・T・ハラオウンは――今も彼に恋をしている。理屈ではなく、心でもなく、身体が――本能が彼に恋をしている。

そんな馬鹿げた確信が胸に在る。
そして、その身体に、心が侵されていることも。
記憶喪失に陥った人間は記憶は失っているが――忘れない事柄は存在する。
それは身体の記憶。五感は、脳の記憶とは関係なく、その事柄を覚えていると言う。
視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚――それらは忘れない。そして記憶が戻る切っ掛けと言うのも、五感からが最も多いのだと言われてる。

多分――私も同じなのだ。
私の五感は、彼と一緒にいた時の記憶を後生大事に握り締めて、心に思い出せと叫んでいる。
その叫びに気圧されて、私は彼と一緒にいることで、彼に触れただけで、こんなにも侵されている。
目前の彼の寝顔を――可愛い寝顔だ、この寝顔を独占したい、などとふとした瞬間に思ってしまいそうなほどに。
それが、どうしようも無く辛い。憎悪するほどに憎い。

「……もう、分かんないよね、何も。」

そう、何も――分からない。
私は自分が何をしたいのかも定まらなくなってしまっている。
世界を敵に回すと言うことには踏ん切りがつかなかった。
けれど、シン・アスカと言う人間に対してだけは決めていたことがあったのに――私をそれを貫けそうに無くなっている。
過去の自分が許せなかった。
エリオを放って、恋していたと言う自分が許せなかった。
許せないと言うことは――恋と言う事実そのものが認められないと言うこと。それは即ち恋した相手――シン・アスカと言う人間すらも認めないと言うことだ。
なのに、それは脆くも“侵された”。
侵されて、今の私は身体が覚えていたであろう、“想い”を無理矢理に受け止めさせられている。
何もかもが私を切り刻み、揺れ動かして――本当に何をどうしたら良いのかなんて何も分からない。

「……私を、守った、か。」

ギンガの言葉を思いだす。
それが真実かどうかなど分からない――私から見れば、彼は彼女を守ったようにしか見えなかった。
だから、私はこの人は彼女のことを好きなんだろうと思ったのだが――本当はどうなのだろう。
この人は、本当は、誰のことを――

「……知って、どうするのよ。」

溜め息混じりの言葉はどこにも届かない。
彼の傷は徐々に徐々に癒えていく――それでも多分、傷痕は残る。
消えない傷痕。彼に刻み込まれた傷痕。私と――彼女が刻み付けた傷痕。
彼は眠る。穏やかに、安らかに――子供のように眠り続けていた。



白い世界。どこまでも続く純白。
どこまでも続く世界――どこにも続かない世界。
遠くには巨大な振り子時計。振り子が揺れる。揺れる度に響く低い残響――鳴り響く音が世界を揺らす。
ありえない世界。現実には存在しない世界――何故か今自分が夢の中にいるのだなと理解する。
それは、いつか見た過去の光景――闇の書の中で見たあの光景の雰囲気に酷似していたから。

そこには子供がいた。女の子だ。
髪の色は金髪。瞳の色は紅――よく見えないけれど、多分紅色。
少女は泣いていた。
一人で膝を抱えて泣いていた。
幼い子供が、何かに抗うようにして、声を殺して泣いていた。
抗っていたのは――多分、悲しいからだろう。

その子の顔には見覚えがあった――見覚えがあると言うのもおかしな話だろう。
それは、私が一番、誰よりも知っている人間――私自身なのだから。

あれは、フェイト・T・ハラオウンになる前の――まだ、フェイト・テスタロッサと呼ばれていた時の私。
お母さんを失って、大事な人を失って――何もかも失くしたと思って泣いていた頃の私だ。
あの頃、自分はいつも声を殺して、誰にも知られないようにして泣いていた。
誰の為でもなく、誰を慮った訳でもない。
ただ、どうしようも無かった――孤独をどうにかしようにも、自分は孤独で、何も無いと言う想いが強すぎて、それ以上どうにも出来なかった。
だから、泣いていた。
なのはやクロノ、色んな人にあの時出会うことが出来た――けれど、出会えたからと言って悲しみがすべて消える訳じゃない。
失ったことに変わりは無い。喪ったことに違いは無いのだから。
そこに、一人の女性が近づいていく。
その女性は、それまでは決していなかったはずだ。
なのに、気がつけば、少女の前に現れていた。
口元が微笑んでいるのが見えた――顔の全体像は、角度が悪いからかまるで見えない。
髪の色は金髪。
瞳の色は紅。
髪を後方で一つに束ね、着ている服は――何故かエプロン姿。
少しだけ顔が見れた――私はその顔を知っている。
少女と同じくそれは私だ。
私より年上の――多分、二十代後半くらいの私だ。

「泣いてるの?」
「……誰、ですか。」

少女(ワタシ)が紅い瞳を腫れあがらせて呟いた。
涙で濡れた瞳からは、何度拭っても、涙が零れ落ちていく。
嗚咽を漏らしながら、少女(ワタシ)は女性(ワタシ)に構うことなく泣いていく。
気持ちは――分かる。
あの頃、誰かに迷惑をかけることが嫌だった――それは今でも大して変わらないけど、あの頃は本当にそれが嫌だった。
こんな自分に良くしてくれる彼らに嫌な思いをさせるのが嫌だったから。
だから、迷惑をかけたくなかった。
だから――泣くのはいつも一人になってからだ。
そんな少女(ワタシ)を見て、女性(ワタシ)がくすくすと微笑んだ。

「私? 私はフェイトって言うの。」
「……私もフェイトです。」
「そっか……同じ名前だね。」

微笑みながら、女性(ワタシ)は何が嬉しいのか、少女(ワタシ)を見ながらニコニコと笑っている。
それは――何なのだろうか。
この光景の意味が私には分からない。
目の前にいる少女(ワタシ)は、昔の私だ。それは間違いない。記憶の中にある、私だ。
じゃあ、あれは――あの記憶に無い女性(ワタシ)は、何なのだろうか。

夢とは無秩序のようでいて、あくまで秩序の元で動いている――夢を見る人の想像力に依存して、人は夢を見る。だから、夢で見る光景とはあくまで自分の中に存在するモノのはずだ。
こんな――こんな、想像したことさえ無い未来の自分を想像するはずが無い。

――それ以前に夢の中でこれほど明瞭に意識を保っていることこそがおかしいのだが、フェイト・T・ハラオウンは、そこに違和感を持つことは無い。“そういう設定”が為されている世界に彼女は招かれているだけに過ぎない。

女性(ワタシ)が少女(ワタシ)の頭に手を置き、優しく撫で回し始める。
大人が子供にするような撫で方――あやすようにして、女性(ワタシ)は少女(ワタシ)を撫で続ける。
不思議で不気味で、眼を逸らせない。
少女(ワタシ)にとって、女性(ワタシ)の手は恐らく邪魔なのだろう。
何度も、女性(ワタシ)から離れようとしているのだが、女性(ワタシ)はそんなことはお見通しだと言わんばかりに、少女(ワタシ)に近づき頭を撫でて――笑い続けている。

「……何が、そんなに面白いんですか。」

少女(ワタシ)が、その微笑みに耐えきれずに、呟いた。
毒づいた、と言っても良い。瞳は淀み、悲しみと憎悪と絶望に塗れ――それは多分、誰にも見せないでいた負の感情。
相手が自分自身だと言う確信があるのか、それともこの世界は“そういう”世界なのか――少女(ワタシ)はいつもなら決して見せないであろう、感情を表情に映し出し、女性(ワタシ)を睨みつけている。

「うん? 面白いっていうよりも――」

女性(ワタシ)が少女(ワタシ)から手を離し、自分の口元に指を当てる。
私や少女(ワタシ)とはまるで違う出で立ち――本当に、自分とはとても思えない“女性(ワタシ)”が言葉を放った。

「楽しみ、かな?」
「……意味が分かりません。」

少女(ワタシ)は、苛立たしげにそう呟く。
そんな顔をする気持ちは――私にだって分かる。
母を失って、リニスを失って、アルフだけがいて――縋りついたモノを失うと言うのは本当に胸を焦がすのだ。
もう、届かない。手に入らない。見つけられない。
喪失したモノは――戻ってこない。
単純な悲しみや後悔だけでは無い――母が消えて安堵したと言う気持ちもあったのだ。
母に縋りついていたからと言って、母に反感を持たなかった訳では無かった。心の表面に出てこない、もっと奥底の深い暗い所にそんな感情があったのだ。
それを自覚することで生まれるのは自己嫌悪だ。そんなことを思う自分が信じられなくて――その気持ちを本当に振り切ったのはいつだろうか。
少なくとも、この年齢では無い。
ハラオウン家に引き取られて、家族と言うものが出来て、その上で――きっと、もっとずっと後。もしかしたら、今でも振り切れてはいないのかもしれない。

だから、少女(ワタシ)は苛立つ。女性(ワタシ)の“楽しみ”と言う言葉の意味が全く分からないから。

そんな少女(ワタシ)の視線を受け止めても尚――女性(ワタシ)は微笑みを崩さない。
女性(ワタシ)の唇が、軽やかに動いた。
風に乗せるような声音。誰に聞かせようとしているのか――こんな夢の世界の中で、私の潜在意識は何を考えているのだろうか。

「悲しい時や辛い時に涙を流して」

女性(ワタシ)は膝を抱えて腰を下ろし、少女(ワタシ)の涙をエプロンで拭っていく。
笑顔はそのまま――少女(ワタシ)が見蕩れるような綺麗な笑顔。

「嬉しい時や楽しい時には笑って――けど、心の中では少しだけ不安になって」

女性(ワタシ)の言葉が少女(ワタシ)の胸をえぐり出す。
けれど、女性(ワタシ)は言葉を止めない。そんな少女(ワタシ)を見て――それでも言葉を紡いでいく。

「私はここにいていいのかなって、ずっと思ってて――けどね?」

いきなりの転調。少女(ワタシ)が顔を上げた。

「貴方の人生はこれから大きく変わっていくの。新しい家族、新しい友達、新しい目標――貴方が想像もしないような、嬉しくて楽しいことばっかり。」
「悲しいことは――」
「悲しいことも、ずっと続くよ。けど、それ以上に楽しいことが多くなっていくの。」

女性(ワタシ)が右手の人差指を、少女(ワタシ)の額に触れ合わせた。
綺麗な手――戦わない一般人の手。ゴツゴツとした私の手とは違う手。

「それに……貴方もいつか恋をする。その恋の相手は“私”と同じなのか分からない。貴方の運命がどこに繋がっているのか、私には分からないけど――きっとそれは貴方を大きく変えてくれる。」

変わる、と言われ少女(ワタシ)の瞳に困惑が浮かぶ。
少女(ワタシ)も恋がどういったモノかは知っている。
けれど、実感として知っている訳でもないし――この時の彼女はそんな恋なんかを考える年齢ですら無い。
だから、変わると言われても意味は理解出来はしないだろう――それでも、変わると言う言葉は少女(ワタシ)にとっては重大な意味を持つ。

少女(ワタシ)は――私は――フェイト・T・ハラオウンと言う人間は、ずっと変化を求めていた。
今のままで良いのかと言う心の不安は、ひっくり返せば現状に不満があるからこそ生まれ出でる感情だ。
現状に不満が無い、満足している――幸せであることを確信できているなら、そんな想いは生まれない。
確信が無いから、不安になる。
だから、確信を求めて――私が変化と言う名の安寧を心のどこかでずっと求めていた、と思う。

「変わる、んですか……私は。」
「恋をすると変わるっていうでしょ? それは男も女も変わらないの――私や貴方の場合は特に、ね。」

何かを――想い出を振り返っているのか、女性(ワタシ)がどこか遠くを見つめるようにして、言葉を紡いでいく。
紅い瞳は、少女(ワタシ)を見ているようでもあり、想い出を見つめているようでもあり――或いは想い人を見つめているのかもしれない。

「貴方がどう変わるのかは分からないけど……きっと、貴方も変わる。変わってしまって、今の自分とは別人みたいになっちゃうの。」
「……私が、変わる?」

少女(ワタシ)が女性(ワタシ)の言葉を聞いて、身を竦めた。
変わる、という言葉に怯えを抱いているのかもしれない。
多分、それは正解だ。誰だって、別人みたいに変わると言われれば、期待よりも怯えが先行するものだし――少女(ワタシ)の目前にいる女性(ワタシ)は、確かに別人みたいに変わっているから。
輝くような笑顔。少なくとも、今の私には――多分昔の私にも絶対に出来そうに無い笑顔。

「大丈夫。」

少女(ワタシ)の小さな顔を、女性(ワタシ)は自分の胸に埋めるようにして抱き締めた。

「それは――怖いことなんかじゃない。あなたをもっと幸せにしてくれる“変化”なんだよ。」
「幸せ、なんて」
「貴方はきっと幸せになる。私と同じように――なれないはずが無いじゃない。だって、貴方は――」

小さく呟く少女(ワタシ)の顔に女性(ワタシ)が顔を近づけて、宣言する。

「貴方は“私”なんだから。」

きょとん、と少女(ワタシ)が女性(ワタシ)を見つめた。女性(ワタシ)の微笑みが柔和なモノから唇を釣り上げた不適なモノへと変わっていく。

「フェイト・テスタロッサは、そんな簡単に不幸になんてならないよ。きっと、ね。」

女性(ワタシ)が立ち上がり、告げる。
瞳の向きは――私。私を見ていた。

「……そう、思うでしょう? 貴方も。」

告げられた言葉と紅い瞳が私を射抜く。
言葉なんて出ない。
これは、夢だ。夢の中の話でしか無い――だったらどうして女性(ワタシ)は私を見ているのか。
女性(ワタシ)が見ている方向に何があるのか、興味を持ったのか、少女(ワタシ)も私の方に向き直る。

「……誰か、いるんですか?」
「私の好きな人は、どうしようもなく往生際が悪くて、分別なんて全く無くて――まあ、はっきり言えば最低な人だね。二股してるし。」

少女(ワタシ)の言葉に応えることなく、女性(ワタシ)が立ち上がり、私に向き直り、歩を進めてきた。
瞳は一直線に私を射抜き、捉えている。

「それでも好きになった。止まる気は無かった。誰にも――“あの子”にだって渡すつもりは毛頭無かった。」

あの子、といった辺りで脳裏で閃くモノがあった。
女性(ワタシ)の言っている、“好きな人”“あの子”が誰なのか――私を射抜く瞳が何かを告げていた。
歩きながら女性(ワタシ)が、うなじの辺りで髪を縛っていたゴム紐を解いた。金色の髪の毛が、重力に従って、広がっていく。

「けど、まあ……どっちも選べないどころか、どっちも選ぶような、そんな馬鹿だったから好きになったんだし――それもいいかなって思った。」

女性(ワタシ)は近づくのを止めない。
思わず、私は後ずさろうとする――足が鉄の棒にでもなったように動かない。
女性(ワタシ)が近づいていく。その距離はもうほんの僅か――少女(ワタシ)も同じく私を見ていた。
これが夢なのか、現実なのかが曖昧になっていく。
女性(ワタシ)が、私の目前に立っていた。
にっこりと微笑んで、朱い唇が、その笑みに似合わない物騒な言葉を紡いだ。

「私のこと――狂ってるって思う?」

沈黙――或いは絶句。
言うべき言葉をどこかに置き忘れてきたように、私は何を言うべきか分からない。
女性(ワタシ)は一心不乱に私を見つめていた。
微笑みとは裏腹な真剣一途――虚構を許さない本気の眼で。
何度か口を開き、同じ回数だけ口を閉じて、また開く。
喋るべき事柄が定まらない。
何を言うべきかがまるで定まらない。
なのに――言葉が勝手に紡がれていく。
紡がれた言葉は私の胸の中にあった幾つもの疑問の吐露。

「……狂ってる。意味が分からない。あの人にどうしてそこまで入れ込むの? それに二股って――どうして、そこまでして、自分を捨てられるの?」

溢れ出る言葉の響きは、全て罵倒そのものとも言える感情の吐露。
気付けなかった――或いは気付きたくなかった事実に、今更ながら気がついた。

――シン・アスカはフェイト・T・ハラオウンとギンガ・ナカジマを守ろうとしていた。
通常――恋愛とは一対一で行うモノだ。
それは常識であり、誠実であり、普通である。
なのに、この女(ワタシ)は今、二股と言った。あの子と言った。
それはつまり――シン・アスカは、フェイト・T・ハラオウンとギンガ・ナカジマの両方と恋愛関係になっている、とそう言っているのだ。
そんなことを、どうしてこんなに平然と言えるのか。気が狂っているとしか思えない。意味が分からない。
嫌な空想が思い浮かぶ。よくあるドラマのワンシーン。好きな男がいた。その男と付き合う為なら何でもするような女――身体を使って、お金を使って、或いは権力を使って。男に縋りつくような女。
反吐が出る。汚らわしいとさえ思った。目前にいる女性(ワタシ)の言葉は汚濁と虚飾に塗れた下劣な言葉にしか聞こえなかった。
私は女性(ワタシ)に眼を向けた。
睨みつけて、近寄るなと――ふざけるなと。
けれど、女性(ワタシ)には通用しない。まるで、そんな視線は何度でも経験済みだと言わんばかりに、意に介すこと無く、こちらに近づいてくる。

「捨ててないよ。私は、あの人を選んだの。あの人以外眼に入らなかったから。」

紡ぐ言葉は決して綺麗なモノでは無い。
捨ててない――あの人以外眼に入らなかったから。
だから、選んだ。
ふざけるな。本当にふざけるな。

「だから、どうして!? どうして、そこまで、あの人のことを――」
「そんなの、知らない――理屈じゃないもの。あの人じゃなきゃ駄目だってそう思ったの。だから、選んだ。」
「そんな馬鹿な理由で、どうして私が――」

もう、目前にまで近づいていた女性(ワタシ)。
右手が動く。戒めが解けた。解けた理由は分からない。動くのならそれでいい。
叩け。この女から離れろ。ふざけるな。私を汚すな。私を――ぱちん、と音がした。同時に右手に熱を感じる。
私は女性(ワタシ)を平手打ちした。
離れろと念じて、思いっきり振り抜いた。
けれど、女性(ワタシ)は――

「……理由も無く誰かを好きになることなんて無いって思う?」

彼女は、平手打ちなど、まるで意に介していなかった。
叩かれたことなど気にせず、話を続けていく。
気圧されているのは叩かれた女性(ワタシ)ではなく、叩いた私。
女性(ワタシ)が首を横に振る。それは違う。そんなことは無い、と。

「……知らないわよ、そんなこと。私は――」

ぎりっと唇を噛み切る。

「私は、あの人を好きになんてなってない……そんな質問、私には関係無い。」
「誰かを好きになるのに理由なんて要らないよ。気がつけば好きだったなんて、どこにでもある話だし――切っ掛けが無ければ、恋をしないっていうなら、世の中から恋なんてとっくに消滅してる。」
「だから、私にはそんなの何も関係――」
「うん、関係無いかもね。」

おどけたように彼女は笑って呟く。

「それだけ言いたかっただけ……そろそろ、この時間もお終いだね。」

女性(ワタシ)が呟きながら振り返る。
振り返った先にいたはずの少女(ワタシ)はもういない――女性(ワタシ)はどこか寂しそうな表情を見せて、もう一度私に向き直った。

「一つだけ――教えてあげる。」

くすり、と微笑み、告げる。

「恋ってね、“する”ものじゃないの。気がつけば“落ちてる”ものだから――抜け出せない落とし穴みたいにね。」

言葉が私を蝕む。その言葉が私の中の琴線に触れていく。
かっと眼が見開いた。心臓の鼓動が全身を震わせる。

「貴方、何を――」

言葉を全て言い終える前に、振り子時計が、時報を鳴らす。
残響が世界を揺らし、亀裂を入れていく――世界の終わり。
この逢瀬――過去と現在と未来の逢瀬が終わりを告げる。

目前の女性(ワタシ)の姿が薄れて消えていく。
手を伸ばしても届かない。
同時に私の姿も消えていく――意識そのものが薄れていく。
彼女の笑顔が目蓋の裏に焼きついて離れない。
そして、その言葉も。

抜け出せない落とし穴。
恋はするものじゃなく、落ちるもの。

その言葉が、どうしても耳から離れずに、私の脳裏を憤怒で埋めていく。
ふざけるなと叫んでも、その声はどこにも届かない。

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