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空想垂れ流し 愛の病 Bパート

愛の病 Bパート


通された部屋はコンクリートを打ちっぱなしにしただけの部屋だった。
中にはベッドと机と椅子――思っていたよりも、遥かにまともな部屋だったことに驚く。

「ここだ。」
「……思ったよりまともな部屋なんだな。」

心中の感想を正直に呟く。
ハイネはこちらの言葉に肩をすくめて、返答する。

「まあな。ここはシェルターと言うよりは隠れ家って意味合いが強いのさ。」
「隠れ家?」
「ジェイル・スカリエッティの隠れ家として、奴が勝手に作っていた施設を議長が勝手に見つけて、占拠した。ここなら聖王教会の人間も場所は知らない。」
「火事場泥棒じゃないか、それ。」
「まあ、誰も気にしてないからいいんだよ。」

溜め息を吐き、室内に入ろうと足を踏み出す――その時、ハイネが口を開いた。

「変わったな、シン。」
「何が?」
「お前が、だよ。」

その言葉に苦笑する。
変わったな、と言えるほどに眼前の男と自分の付き合いは長くないだろうに。

「いや、あんた、俺とそんなに付き合い長くないだろ。」

苦笑しながら言い放った。精々が数日間と言う程度だったはずだ。
だから、それは単なる言葉の上でのモノにしか過ぎない――そう、自分は思っていたのだが、ハイネは違っていたのか、こちらの眼に自分の目を合わせ、呟く。瞳は真剣そのものの本気の眼。

「これでも人を見る目はあるつもりなんだよ。」

覗きこむような視線――どこか先輩風を吹かせて、けど、それが嫌みにならない。
そうして、徐々に思い出していく。
そうだ、こういう男だった。
ハイネ・ヴェステンフェルスと言う男はこんな男だった。こんな風に僅かな時間で人を見る男だった――それこそ、あの頑固者のアスランでさえ、この男の言うことは聞こうとしていたのだから。

「根暗で不幸面したクソガキだったあの頃から見ると、まるで別人だろ?」
「……クソは余計だろ。まあ、言いたいことは分かるけど。」

変わったかと聞かれれば、変わったと答える。これからはもっと変わる。変わり続ける。
自分でそう望んだのだ。クソガキだった自分も、馬鹿だった自分も、最低な自分も、根暗で不幸面した自分も――全てを背負って生きていくのだと決めたから。
流れていく思考を振り切り、告げる。

「色々あったんだよ、色々とさ。」

右手を開き――その中心に見えだした、瞳のような紋様を見て、握り込む。隠すように――見えないように。
ハイネに向き直った。
オレンジ色の髪をした男が涼しげにこちらを眺めている。

「大体、そのくらいのことは知ってるんだろう? ティアナ達から聞いてるはずだろうし……あんたらが、そこらへんを調べてないなんて思えない。」
「……どうして、そう思う?」
「あれだけ派手に登場しといて、何も知らないなんておかしいだろ。俺のことも、この世界のことも――何でも知ってるって考える方が自然だよ。」
「ああ、ま、そりゃ確かにな。」

登場、という言葉を聞いて、その時を思い出したのか、ハイネが苦笑する。
今回は上空数十m――もしかしたら数百mかもしれない――からの大地に落ちる隕石のような蹴りと共に登場し、前回などはモビルスーツサイズの武器を“投げた”のだ。
あれだけ派手な登場をしておいて、何も知らないと言われる方がよほど違和感がある。
ギルバート・デュランダルやハイネ・ヴェステンフェルスと言う男はそんな人外の力を生身で使えるような常識外れの人間では無かったのだから。
だからこそ、そうでなければ――彼らは何もかもを知っていないと辻褄が合わないのだ。
生きていただけでも驚きだと言うのに、見たことも聞いたことも無いような魔法を使っていた。しかもその力はオーバーSランククラス。
どうやって、そんな力を得たのか?
簡単なことだ。自分と同じく、魔法――通常の魔法とは違う異常な類――によって得た力だと思えば、不思議でも何でもない。
ただのモビルスーツパイロットに過ぎない自分が剣の達人の技術を肉体に刻み込まされることで手に入れたのだから、ハイネやデュランダルが同じような処置を受けていても何もおかしくはない。
ならば、どうやってそんな力を得たのか――詳細は分からないが、このシェルターの場所を知っていたことから、スカリエッティの元かもしれない。
予想と言うには拙いモノであるが、大筋では外れていない――そう思っていた。

「あんたらは何でも知ってる。さっき議長が俺に言ったことも“知った上”で言ってるんだろうから疑ってなんかいない。」

言葉を切って、唾を飲み込んで続ける――少しだけ昂揚する自分を自覚する。
一瞬の沈黙。その僅かに開いた間から何かを感じ取ったのか、ハイネの顔にも緊張が浮かぶ――違う、緊張ではない。
その表情は不敵。薄っすらと微笑みを浮かべた――こちらを試しているような表情。
自然、口元が綻んでいく。

「だから、嘘吐いた理由も大体分かってる。」
「……嘘ってのは?」
「世界は滅びないっていう嘘さ。俺にあんな嘘通じるはずないって分かってあんなこと言ったんだろ?」

ハイネの瞳を覗き込む。
不敵な笑みが満足げな笑みに変わる。
うすら笑いに浮かぶ出す鬼気。
以前は感じ取ることも出来なかった、ハイネ・ヴェステンフェルスと言う兵士の気迫――歴戦の戦士という称号が何よりも似合う姿。
隠す気も無いのか彼は簡単にそれを暴露する。

「お前の思っている通り、ギンガ・ナカジマを助ければ、羽鯨はこの世界を滅ぼす。」
「……スバル達に隠してるのは、あいつらを迷わせない為に?」
「さあな。そこから先は議長の一存さ。議長の命令を実行しているだけだ。それに、嘘吐いた覚えは一度も無いぜ?」

ハイネが得意げに呟いた。

「言ったろ? 世界を救うってな。」
「……単なる屁理屈だろ、それ。」

その言葉で大筋を理解する――確かに嘘は言っていない。目前の男とデュランダルは嘘をついていない。
世界を救う――どの世界を救うかなど明言していない。
言葉遊びも良い所だ。
つまり、彼らが救おうとしている世界は、“ミッドチルダ”ではない――恐らく“コズミックイラ”を救う為に戦っている、とでも言うのだろう。

「……スカリエッティのやろうとしてたことと逆ってことかよ。」

呟く。
ハイネが自分の言葉に驚いたように眼を見開く。まさかこれほど早く理解されるとは思わなかったようだ。

「……やっぱり、お前は変わったよ。昔みたいに簡単に利用させちゃくれなそうだ。」
「その通り、ってことか。」

睨みあう二人。沈黙が場を覆う。数秒か、数分か、或いはもっと長いのか。
先に沈黙を破ったのは自分だった。
沈黙に耐えられなかった訳ではない。その後ろに人影が見えたから、自然と口を吐いて言葉が出ただけだった。
紅い瞳と金髪――フェイト・T・ハラオウン。記憶を忘れてしまった人。

「フェイトさん?」

紅い瞳がこちらを見ていた。
冷たい視線――悲しそうな視線で。
記憶を失くしてしまい、自分のことは忘れてしまって、何も覚えていない――はずだ。
足を踏み出した。途端、こちらに気づいたのか、彼女の姿がどこに消えていく。

「……嫌われてるなあ、お前。」

ハイネがニヤニヤと唇を歪めて微笑んでいた。

「うるさい。ほっとけ。」

冷たく呟く――ハイネが更にニヤニヤと笑い出す。
嫌われている訳ではない――とは言えない。どちらかと言えば確実に嫌われているだろう。
彼女とは未だにまともに話をしていないから分からないが、少なくともコズミックイラに転移するまでの自分のやってきたことは全て知っているだろう。
エリオが裏切ったと言う事実も、彼女がシン・アスカに恋をしていたと言う事実も――そして、シン・アスカがどちらも選べずに彼女“達”を守れなかったという事実も。
足を踏み出し、ハイネに目を向ける。ニヤニヤとした笑いを崩すことの無いハイネに言い放った。

「悪い、後、頼んだ。」

ハイネは肩を竦め、不承不承と言った体で頷く。

「分かったよ……しかし、本当に変わったな、お前。」
「何がだよ。」

心中の苛々が心に伝播したのか、少しだけ口調が荒くなる。
ハイネはそんな自分の態度を気にすること無く――笑いも消えない――続ける。

「前、議長と会った時のお前は色恋沙汰とかとは無縁に見えたんからな。今、そうやって、色恋沙汰で慌ててるお前見てると同じ人間には見えなくてね。」
「……それこそ、ほっとけよ。」
「ま、そうかもな。行けよ、あの子もう行ったぞ?」
「ああ、それじゃな。」

ハイネに促され、フェイトの後を追って走り出す。彼女がどこへ行ったのかは知らない。後を追ってどうするのかも決めていない。
それでも――。

シン・アスカは笑う。
状況は良くはない。むしろ悪いとさえ言える。
フェイトはシンのことを忘れていて、ギンガはシンのことを敵だと思い込まされている。
それだけではない。
シン・アスカの願いは誰も認めはしないだろうし、記憶を失くした二人がシン・アスカの願いに応える訳も無い。
状況は既に絶望的であり、困難ばかりが目につき、幸せな状況などどこにも存在しない。
けれど、“絶対”に無理などと言うことは“絶対”に存在しない。
物事に絶対など存在しない――そんなモノは全て覆す為に存在する。
故に、意味の有る無しなど気にしない。思いのままに突き進む。ただ胸に湧き上がる感情そのままに。その果てに何があろうと構わないと胸に刻み込んで。
――そうして走り抜けるシンの後ろ姿をハイネが後方から眺めていた。

「……若いなあ、あいつ。」

どこか羨ましそうな口調で、ハイネが呟いた。


繋がる瞳と瞳。
繋がった瞬間、起きた変化は胸の疼きだった。
頬がかっと熱くなる。握られた手の暖かさを思い出す。
浮かび上がる幾つものの記憶の残滓――宿る実感の暖かさ。
それら全てに吐き気にも似た嫌悪を覚え――気がつけば、その場から走り去っていた。

「……何で、こんなに。」

どうして自分はこんな風に思ってしまうのか。
記憶を失くしている以上はシン・アスカとフェイト・T・ハラオウンは知り合いではない。喋ったことも無い。触れ合ったことなど無い。一度も無い――なのにどうして、こんなにも自分の胸は疼き、“近寄りたい”という衝動が生まれるのか。
自分が自分では無い錯覚――自分の中にもう一人の自分がいるように思う。
その錯覚はそれほど外れではない。きっとコレは“失った自分”そのもの。
失くしてしまった自分――エリオを裏切らせた馬鹿な女の、汚れて、濁ってしまった自分のことだ。
そんな自分を“私”は嫌悪する。なのに、その汚れを嫌悪しきれない自分が確固として存在する。
“私”と自分が相反し、同じことを考えられなくなっている。

繋がる朱と紅――結ばれあった瞳から逃げるように駆けだして、辿りついた場所は、誰かが使っていた研究室のような場所。
誰か――そんなのはスカリエッティ以外にはいない。
元々がジェイル・スカリエッティの隠れ家と言うだけあって、今現在彼女たちがいるシェルターは隠れ家というには異常なほどに広く、充実した設備を備えていた。
どういった技術を使っているのか、クラナガン――下手をすればミッドチルダの全てを網羅する監視網まで備えている。
室内に溢れかえる幾つものダンボール。書類や計器類、端末が中に入っている。既に調べ上げられて、纏められているそれら――どこか誰にも調べさせないようにしているような節を感じさせる。
実際、ここにある書類をフェイトはティアナ達と共に全てを調べ上げている。その上でギルバート・デュランダルの言葉に従い、此処にいるのだが。
書類以外には幾つものデバイス――中にはどこか見たことのある形状――が散乱している。
その内の一つ、大剣の形をしたデバイスを手に取る。材質が違うのだろうか。見た目よりもはるかに軽い。それはデバイスというよりは武器という言葉が似合う――あの男が使うデバイスを思い出させる。
逸れた思考が元の方向に戻るのを感じ取る。握り締めた大剣を床の上に捨て置いて、溜め息一つ、呟いた。

「……シン・アスカ、か。」

そうして、呟いても鼓動は大きくなることは無い。彼に向けられていた意識を別の方向に逸らすことで、彼女の胸の鼓動はようやくおさまりを見せ始めていた。少なくとも、考えただけで心音が思考を邪魔することが無い程度には。
心の中に存在する“昔の自分”の鼓動が消えて、“今の自分”の想いが全てを占拠する。そうして、ようやく静寂が舞い降りる。彼女が今いる室内と同じように――彼女のこの半年間と同じように。

「私は――あの人を好きだった。」

然り。記憶を失った彼女以外の全員がそう言っている。
人伝えに聞いた話ではあっても――伝えてくれた人々は嘘を言う人間ではない。

シグナム――恋をすると人は変わるのだと痛感した。
ヴィータ――いや、やばかったぜ。
シャマル――青春ですよねえ。
ティアナ――いや、もう本当に……酷かったです。
スバル――ギン姉のライバルって感じでした。
キャロ――いつも、嬉しそうに笑っていました。

皆が笑顔でそう言っていた。
笑っていた。楽しそうにしていた。
“あんなフェイト・T・ハラオウンは今までに見たことが無い”とそう言って――
拳を強く握り締めた。奥歯を噛み締める。
手近な机に八つ当たりしそうな自分を必死に自制し、押し留める――泣き叫ぶ見っともない男。シン・アスカの顔が見えた。
悪鬼のように戦いながら、悪魔のようにギンガに近づきながら――そして、最後に自分の手を握って、涙を流した男。

「……そんなの、私じゃ、ない。」

力なく呟き、立ち尽くす。
室内は静かだ――今は誰もいない。皆は訓練に勤しんでいて、自分だけがそれに加わらずに、このシェルター内を適当に歩いてきた。
理由は――一人になりたかったから。皆が前を向いている中で自分だけがそれに集中できないでいる。取り残されたと言う、その疎外感が、彼女の足を此処へ向かわせた。
そうして、その最中にあの男を見つけた。シン・アスカ――の胸を掻き乱す男を。
視線はいつの間にか、そちらに囚われて、気がつけば彼をずっと見つめていた。
視線は熱を帯びて、胸はいつの間にか大きく鼓動して、そして思考は全てその朱い瞳に取り込まれていくようで――それが、あまりにも“恐ろしかった”。
胸の鼓動は今までの記憶には無いモノ――いや、昔一度だけ感じたことのある類のモノ。それも今ではまるで感じなくなって、気にしなくなったモノ。
恋。恋慕。情愛。
そんな言葉で呼ばれる類――以前、自分が感じたのはクロノとエイミィが結婚することが決まった時だった。
二人の結婚が決まった時、胸にズキンと音が響いた。割れるような音――何かが刺さるような音。
本当に微かな、気にしなければ刺さったことにすら気がつかないような微かな棘。
今思えば、あれは初恋だったのだろう。義理の兄に対して、義理の妹が恋をして、そして破れ去る。
どこにでもある恋。
どこにでもある失恋。
以前はその事実に全く気がつかなかった――それまで共にいた家族がいなくなると言う寂しさだとしか思えなかった。
無論、義理とはいえ兄と妹が恋愛するなど普通はあり得ないのだが――フェイト・T・ハラオウンの場合は多少意味合いが違う。
自分と兄は生まれついての兄妹ではなく、自分が引き取られることで成立した兄妹。年の近い頼れる男、と言う感覚があったからか、恋愛と言う感情に発展するのもそれほどおかしなことではないのかもしれない――そのキモチも今はもう無い。彼が結婚して既に数年。そんな感情はどこにもない。

けれど、その感情――相手は違うが――が、今、自分を侵している。シン・アスカ。朱い瞳の異邦人――フェイト・T・ハラオウンとギンガ・ナカジマが好きになった男。
あの時の感情――クロノに感じた感情よりもはるかに大きく、はるかに荒々しく、おかしくなっていまいそうなほどに強い気持ち。
なのに、そこにまるで実感が籠らない空虚な恋慕――おかしな例えだ、とフェイトは思う。
中身が詰まってこその恋慕。なのに、この身体に籠る気持ちは、中身の入っていない、がらんどう。
胸が張り裂けそうなほどに強く彼を想う“自分(カラダ)”。なのに、“私(ココロ)”は――それをどうしようもなく“汚らわしく”感じている。汚濁にしか思えない、濁り切って浅ましい、汚い。そんな気持ちを持っていること自体がどうしようもなく許せない。
この胸が温かくなることが何よりも度し難い――許せない。
この胸に生まれている感情は恋慕と自己嫌悪。
彼を想う恋慕と、彼を想う自分を嫌う自己嫌悪。

「……本当、私、最低じゃない。」

呟きはそのまま感情の吐露。
恋に溺れて、子供が追い詰められていたことにも気付かない愚かな自分に対して。
近くにあったソファーに腰を落として、そのまま寝そべった。態勢は仰向け――天井が見えた。
いつまで経っても慣れない天井。病的に白い天井の色。それを照らし上げる照明の白。
眩しい――そこに向けて手を伸ばす――届くはずもない。
精々が照明を隠せる程度の動作。

「エリオは、苦しんでた、のに。」

キャロはそれを見て、エリオを助ける決意と覚悟をして――一心不乱に自分を鍛えている。

「私は、あの――シン・アスカって人に恋をして。」

実感の籠らない、映像の中だけの恋愛。
録画再生される自分自身の映像。
実感の籠らない恋慕。
自分だけがいつまでも同じ場所、同じことを考えて、ぐるぐると回り続けている。
行き先はどこなのか――そんなモノ、とうの昔に失くしてしまったのか。
虚無感があった。虚脱感――と言い換えても良い。

「……皆はいなくなって。」

大事な友達も、大事な家族も、大事な――初恋の人も、全部が敵になって。
胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感。大切なモノが零れ落ちていくと言う感覚。
流されていただけだと言う負い目がそれを後押しし、
そこに入り込む、いつの間にか植えつけられていた気持ち――押しつけられた結果。
どくん、と胸が鼓動する。笑いしか浮かばない。嗤うしかない。
“私(ココロ)”は彼に対して何も思っていないのに、“自分(カラダ)”は彼に恋をするというこの矛盾が。

「何も、知らないのに、ね。」

呟きと共に、思い浮かぶのはあの男。
胸が鼓動する。自動的に――自分の意志とは無関係に。
“自分(カラダ)”は昂揚し、“私(ココロ)”は憎悪するその気持ち。
空虚な恋慕――そして、私がエリオを裏切ったと言う証左。
覚えていることも出来なかった淡い恋――なのに、“自分(カラダ)”にだけは刻み込まれている。
全身から力が抜けていく。
どうしてこうなったのか。何が起きてこんなことになったのか。そんな答えはどこにもない。覚えていないのだから分かる訳も無い。
それに、思い出したくも無い。エリオを裏切った事実を突き付けられる――そう、思うと、その記憶にすら手を伸ばすことが怖い。
そして――それらとは別個に胸に存在する、黒い感情。ただひっそりと眠り、ある時、“私(ココロ)”を喰らい尽くさんばかりに暴れ狂うどす黒い感情。“彼女”の名前を聞く度に荒れ狂う感情。
それも――“私(ココロ)”の気持ちではない。けれど、紛れもなくフェイト・T・ハラオウンの“自分(カラダ)”に刻み込まれた激情。
その感情を経験したのは、これまでに数度程しかない。
一度目はアリシアに――自分を見てくれない母を想って、会ったことも無い私の原形に感じた。どうして私は貴女と違うのか、と。
二度目はエイミィに――自分でも気付かなかった気持ち。今思えば、と言う微かな揺らぎとして、クロノと結ばれた彼女に感じた、寂寥と勘違いするほどに小さな感情として。

それは――嫉妬。誰かを好きになると言う気持ちが生み出す副作用。

“自分(カラダ)”は“ギンガ・ナカジマ”に嫉妬している――だから、彼女を救って世界を救うことに没頭出来ない。“助けたくない”――見捨てたいとさえ思っている。
それは没頭出来ない理由の全てでは無い。けれど、その一部であることは間違いない。
天井に向けて伸ばした右手を力強く握り締める。強く強く――それこそ爪が深く食い込むほどに。
握り込んだ手を、開く。爪が掌を穿ち、血が流れていく。いつも短く手入れしている爪にも付着する紅――自虐の為に自分を傷つけても、何も変わらない。

「……最悪。」

それは信じられないほどに身勝手な気持ちだった。
少なくとも、“私(ココロ)”にはとても信じられないと言っても良い。
誰かを見捨てることが嫌だった。
だからこそ、偽善と知りつつも、エリオやキャロを引き取り、自らの子供として生きてきた――見捨てることが嫌だったから。
なのに、今、自分は、誰かを見捨てようとしている。

――恋に溺れた“自分(カラダ)”はそれを望んでいる。それを撥ね退けようと抗った。けれど、結果は変わらない。元より、気持ちなどという曖昧なモノを撥ね退けることなど出来はしない。そうして、自分は今も没頭出来ずに、燻ることも出来ずにただ此処にいる。
こんなに自分は最低だったのか、と考えれば考えるほどに自己嫌悪は極まっていく。

――“私(ココロ)”はシン・アスカを嫌悪する。
――“自分(カラダ)”はシン・アスカを求めている。

二律に相反する“私(ココロ)”と“自分(カラダ)”。
エリオは今もどこで何をしているのか分からない――“私(ココロ)”はいつもエリオやクロノのことを想い浮かべ、
シン・アスカをどう思えばいいのか分からない――“自分(カラダ)”はいつもシン・アスカのことばかりを想い浮かべる。
ふっと笑みが浮かぶ――あまりにも無様で最悪な自分を嗤う――そんな嘲りすら哂うしかない――自嘲の微笑み。

「エリオを……皆を失って、その上で男を求めるなんて、最低……本当に最悪だ。」

募る苛立ち――それすらも、この虚無の中では霧散する。
積み上げられていくのは、苛立ちではなく虚無感。
“自分(カラダ)”に対して、どれほどに抗おうとも抗えない“私(ココロ)”の弱さ――何をしても意味が無い。また何をするべきかも思いつかない。

――やるべきことは分かっている。世界を救い、ギンガを助け、エリオを連れ戻す。けれど、それが出来ると言う確信を持つことが出来ない。

自嘲が更に加速する。嗤いが醜く歪んでいく。
確信を持てない、のではない。確信など初めから無かったと言う事実が、胸の内から湧き上がってくる。

フェイト・T・ハラオウンとは――揺らぐ女だ。確固たる物など何もない。少なくとも、“自分の中から”確固たるモノを生み出せるような人間ではない。
“誰かに支えられることでしか生きられない”――彼女は誰かに依存することで強くなる。
強さ――確信の拠り所を自分ではなく他人から取得する類の人間だ。
別にそれはおかしなことではない――誰だって、誰かと関わることで生きていく。
拠り所を常に自分の中から取得する人間など殆どいない――愚かで馬鹿な独善者(エゴイスト)でなければそんなことは出来ない。
だが、誰かを救おうとするならば、そうでなくてはならない。独善者(エゴイスト)の語る独善(エゴイズム)――誰にも寄る事の無い独り善がりこそが人を救うのだから。
彼女には、それがない。そんな強烈な独り善がりを持っていない――だからこそ、そんな彼女に誰かを支えることなど出来る筈が無い。
それを覆そうと言うのなら変化が必要だ。
劇的な変化――何もかもを覆すほどの、強大な変化が。
彼女だけが手に入れることのできる、彼女だけが磨き上げ、光輝かせる独善が必要だ。
誰にも寄らない――誰でさえもその独善の前では打ち砕く。
独善とは即ち覚悟。八方美人では手に入らない我執――確信だ。

「……何が、間違いだったのかな。」

決して、間違いだとは思わない人生。誰かの為に生きようと――誰かを守るために、生きてきた。誰かを救う為に。
間違えたと言うのならば、彼女の記憶には残っていない期間こそ、“間違えていた”。
恋に溺れて、その他全てを忘れていたのだから――変化と言えば、それもまた変化ではあるが。
だからこそ、その時点でフェイト・T・ハラオウンにエリオ・モンディアルを救う資格は無い。

――彼女自身はどう足掻いても知らないことではあるが、エリオ・モンディアルが裏切った原因と言うのは紛れもなく、シン・アスカとフェイト・T・ハラオウンの“せい”である。
彼女がシン・アスカに恋をしなければエリオ・モンディアルは裏切らなかった。
それは紛れもない事実だ。
故に――エリオ・モンディアルを連れ戻すと言うのならば、それは彼女ではない。エリオ・モンディアルはフェイト・T・ハラオウンを救う為にこそ“裏切った”のだから。
そんな人間にフェイト・T・ハラオウンのような確信――絶対的な拠り所を持たない人間の言葉が届く訳も無い。希薄な言葉が届いてはいけない。
誰かを救う為に、自分自身すら裏切ったと言う決意は――そんな軽い言葉/覚悟で覆せるはずがないのだから。

自嘲は至極当然の事実――彼女自身にとって、それは既に真実にまで昇華してしまっている。だから、彼女は自嘲することしかできない。
物理法則のように、水が上から下へと流れていくように――それが当然であり必然である。

「……はあ。」

溜め息一つ――馬鹿馬鹿しいと断じて、思考を切り替える。泥のように思考の檻にこびり付く“混乱”と“迷い”を無理矢理に切り替えたと錯覚させ、迷い込んだ思考の迷路から抜け出す。
そろそろ行かないと、キャロ達が心配し出す――そんな“嘘”を吐くこと、振りをすることだけに気を回す自分が惨めだった。
溜め息が募る――無様で惨めな自分に嫌気が差して。
そして、その時――扉が音を立てた。コンコンと。それは誰かがノックする音。
続いて、声が届いた。
今――世界で一番会いたくなかった人の声が。

「フェイト、さん……いますか?」

背筋が震えた。身体が震えた。喜びに/憤怒に――心が躍る。
コンコンと扉が叩かれる。繰り返す――繰り返す。
黙り込む“私(ココロ)”と震える“自分(カラダ)”が二律に相反し、相克する。
しつこく――フェイト・T・ハラオウンがこの部屋にいると確信しているのか扉がまた、叩かれた。
浮かび上がる言葉。何かを言わなければ――何を?

「……ぁ。」

返事を返そうとして、声を上げようとするも、上がらない。喉が磔にでもされたように震わせられない。
思考が混乱する。何でだろう。どうしてだろう。何を言わなければ良いのかも分からない――なのに言わなければいけないと、焦燥が駆け巡っていく。

「ぁ、ぅ……」

小さな呟き。それが喉を震わせて絞り出せた声の限界量。鈴虫の鳴き声の方がよほど大きく美しい――自分が発せられるのは無様で惨めな負け犬の声。

「……フェイト、さん?」

声が、聞こえる。怪訝な声――フェイト・T・ハラオウンが此処にいるのかどうかを疑い出している声。
喋れば良い。何事かを言えば良い。
なのに、声が出ない――出せずに、佇むだけ。
声が出ないのは怯えから――そして惧れから。
何故――どうして――ふざけるな――重なり合う意味の無い/或いは意味だらけの言葉の羅列。
錯綜し、混乱し、喧騒する思考。
声を上げれば良いのか、帰れと拒絶すればいいのか、どうでもいいと無視すれば良いのか。
拒絶したい“私(ココロ)"と独占したい"自分(カラダ)"と何もかもを捨てて逃げ出したいワタシ。
怯える――求める――怖れる。
一者三様の感情が錯綜し、脳髄を軋ませる。

シン・アスカとフェイト・T・ハラオウンは“関わり”の無い他人だ。
彼がどうなろうと、何をしようと関係が無い、本当に初対面――会話をしたことすら、無い人間なのだ。
記憶を失って――自分のモノだと言う実感を失った記憶だけを押し付けられただけの、そんな“私(ココロ)”にとっては関わりの無い男でしかない。
けれど――“自分(カラダ)”はシン・アスカのことを考えてしまう。
怖いのは――怯えるのは、彼が近づけば、もう彼のことしか考えられなくなりそうで怖いのだ。
怒るよりも悲しむよりも尚先に――砕け散ったフェイト・T・ハラオウンの“私(ココロ)”はそれにこそ怯える。
エリオ・モンディアルを忘れて、シン・アスカのことを想ってしまいそうで――今度こそ“息子(エリオ)を裏切ってしまいそう”な自分が、怖かった。

「……ここ入ったと思ったんだけどな。」
「……っ」

その声に胸が躍り、ざわめき揺れて、沈降して、それでも、自分は動かない。
昔、映画で見たことのある光景――化け物に襲われて、それから身を潜めて隠れ続ける誰かのようにして。
怖い。
会ったその時は何とも思わなかったのに、それからたった数時間で"私(ココロ)"の在り様全てを変えようとしていることが怖い。
再び、こんこんと叩く音――嫌だ怖いどこかに行って私に構わないで。心のざわめきが全身を震わせる。

「……いない、のか?」

落胆するような呟き――それを寂しく思う”自分(カラダ)”/本当に安堵する”私(ココロ)”。
このまま彼が向こうに行ってしまえばそれで良い。何も起こらなければそれで良い。
これ以上、ワタシに何も想わせないで――そんな心中の呟きを嘲笑うようにし、ドアノブが音を立てた。
心臓が、跳ね上がった。

「……開いてる。」

ドアノブが回る。がちゃりと音を立てて回される。押し出される扉。自分はそれを見て何もせずに――或いは何かを期待して――そして何かに怯えて――ただ、開けられるがままの扉を見つめていた。

「……やっぱり、フェイトさん、いたんですね。」

朱い瞳が紅い瞳を絡め取る。
刹那、心臓が大きく脈動する。“自分(カラダ)”が彼を求めて荒れ狂う。“私(ココロ)”がそれを抑圧し、震えていく。
巨大化する虚無。
脳髄が真っ白になっていく――怖い。刻一刻と変えられていく自分を自覚する。
痛くて怖くて泣いてしまいそうだ。

「……“アスカさん”、ですか。」

起き上がり、名前を呟いた――初めて呼ぶはずなのに、その呼び方に違和感を覚える。
彼の顔が歪んだ。切り刻まれるような痛みが更に胸を貫いた。

心中で呟く。
どうして、どうして、と。
変えられたくない自分――変えられていくことで自覚する罪。
エリオを裏切り続けると言う罪悪感。それすら自己陶酔の極みだと言うのに、自分はそれを止められない。

「……フェイトさん?」

そんな自分の胸の内の喧騒など知ることなく、彼が怪訝そうに呟いた。
自分が僅かに胸を抑えようとしたからか――だが、そんな仕草/心配は全て自分にとっては罪そのもの。
フェイト・T・ハラオウンにとって、シン・アスカとは触れてはならない劇物だ。
触れれば、変えられてしまう。
"自分(カラダ)"に"私(ココロ)"が犯されていく。変わり果てた結果として行きつく先は恋に溺れる馬鹿な女。
そんな、自分が最も嫌う存在へと。
シン・アスカを嫌うのではなく、恐怖する――無造作に自分が変えられていくことが恐ろしくて。
シン・アスカを嫌悪するのではなく、彼に恋をする自分をどうしようも無く嫌悪する――エリオを裏切ったと突き付けられているようで。
胸が――痛い。痛くて痛くて涙が毀れそうになる
胸の中で二つの気持ちが荒れ狂って、脳髄を侵していく。
心中の願いは、ただ関わりたくない、それだけ。なのに、彼は関わってこようとする――それがどうしようもなく“疎ましい”“腹立だしい”“許せない”。それは単なる関わりたくないという憤怒の反転衝動――逆恨み、八つ当たり。自身が背負うべきモノから逃れる為だけに紡がれる責任転嫁。

「何でも……」

けれど、それだけは出来ないと――彼女の中に残る僅かな矜持が蠢いた。その責任転嫁から僅かでも逃れようと。
フェイトの顔が俯いた。隠すように、決して目前の男には見せないようにして、彼女の口が動く。

「何でもない、です。」

呟きは静かに――何も込めないように、フェイトは呟いた。

「……そ、そうですか。」

シンは何も言えない。言葉を拒むような、その態度の前では何一つとして言葉を放つことも出来ない。
交わしたい言葉は幾つもあった。返したい返事もあった。
けれど――言えない。言える訳が無い。

――何かを口にして、拒絶されるのが怖いから。

記憶を失くしていようと、どうなっていようとも関係無いと思っていた。
事実、ギンガが記憶を失くしていることなど、自分には関係が無いと断じて、ただ取り戻すことに集中した。
戦いの最中だったから。それ以外のことを考える余裕が無かったから。
けれど戦いが終われば――それらは全て裏返る。
陰鬱そのものと言った、少し前の自分のような表情をしたフェイトを見て、何かを言えるほど、シンは達観してはいない――というか何かを言えるような余裕などどこにも無い。
どれほどにふっ切ろうと人の心の根幹とは変わるものではない。
恋する男の心理などは単純明快――嫌われるのが怖い。そんな気持ちは誰にだって存在する。
フェイト・T・ハラオウンの心の中が掻き乱されているのと同じように、シン・アスカの心もまた掻き乱されているのだ。
彼にとって、ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンと言う二人の女性はその程度には“重い”。
好意を持っている――惚れている、魅了されていると言って良い。
どうしてそこまで惹かれたのか、どうしてその二人なのか。彼は彼女たちの内面など何も知らない。知ろうともしていなかったのだから知る筈が無い。想像すらしたことも無い――ならば、何故か。
切っ掛けや理由などは曖昧だ。
誰かが誰かに恋をする理由など千差万別。
ハッキリとした理由がなければ恋では無いというのならば、世の中の半分以上の人間は恋などしていない。
同じくシン・アスカもまた――二人に恋をした理由は曖昧だ。強いて言うならば、いつも傍にいたことと、好意を持たれたから、というものだろう。
それは、特に変わった理由でもない。どこにでもあるような雑多な恋愛と似たような理由に過ぎない――恋愛とは須らく雑多なモノではあるが。

馬鹿げた生活だ。朝起きればフェイトがいつの間にか勝手に自分のベッドの中に入っていて、それを起こしに来たギンガが見つけて喧嘩を始め止めようとしたシンは殴られ気絶して、毎朝の訓練では日課のように三人で柔軟をして、朝食を三人で食べ、そうして一日を始め――全て同じくそんな風な三人一緒。
そんな日々を過ごした。
今、想えばその日々は大切なモノだった。
あの時はそれを酷く疎ましく――そして、申し訳なく感じていた。自分のような人間にそこまでしてくれる彼女たちに恩を感じていた。
だからこそ、告白をされた時、異常なほどに動揺した。その日々が崩れるから――違う。その日々に埋没し、“幸せ”になってしまうかもしれないから。
そんな日々の結果として、ある想いに気付かされる――失ってからでしか気付けなかった想いに。
それは本来、抱くべきではない感情。二人の女性に心の底から恋をするなど通常ではありえない。けれど現実に抱いてしまった感情。
その為に此処まで来た。元の世界を“捨てて”、この世界で生きる為に。
大事な人々――いけ好かないけど嫌いになれない先輩とか、嫌っていたけど話してみたら案外良い奴だった先輩とか、昔恋人だった人とか、家族の前では優しい女性とか、見違えるほどに成長した大嫌いな女とか――もう会えない何人もの人々の顔が思い浮かぶ。
それら全てと引き換えにしても、彼女たちが欲しいと思った――そんな馬鹿げた願いの末路が今の場所。恋に狂った人間の行きつく果て、とも言える。
その結果として、自分自身をがんじがらめに縛りつけると言うのも馬鹿な話だが。

沈黙が室内に満ちていく。
扉は開け放たれたまま――シンは室内に踏み込むこともせずに、扉の前で佇んだまま、そこにいる。
喋ることはできない。
フェイトは口を開くことで“変わって”しまうことが恐ろしく、シンは何かを言って彼女に拒絶されることが怖くて動けずにいて――動けない二人。
足を踏み出そうとするシン――フェイトはシンのその動作に僅かに身体を反応させた。それでシンが何かをしようと思っている訳でも無いだろうが――それは殆ど反射的な動作だ。
けれど、それは明確な――少なくともシンはそう思える――拒絶だ。

「……っ。」

それでも踏み出した足を戻せる訳も無い。
意を決して、室内に踏み入り、呟く――何を話すべきかも定まらないから、内容は至極単純明快な思いつき。

「何も……」

呟きが――その小さな声を発する為に引きずりだす力はどれほどのモノだと言うのだろう。
簡単な確認。
言葉にすればたった一言。
喉が冷え切ったコンクリートで固められたみたいに上手く動かない。
戦う為ではない力――心を動かす為の力――願いを叶える為の力。
それはどうしてこれほどに湧きあがらないのだろうか。

「何も……覚えてないんです、よね。」
「……何が、ですか?」

やっとのことで絞り出した自分の言葉に、彼女の声が染みわたっていく。
胸が痛い。頬が歪む。
覚えていないことが――胸を抉り抜く。
俯いた彼女の顔は遠くからでは見えない。
近づかなくては見ることも出来ない。

フェイト・T・ハラオウンの“私(ココロ)”の言葉にシン・アスカの頬が歪んだ。記憶が無いことを肯定するこの上ない返答――無知。
その通り、彼女は無知である。何も知らない――記憶が無いのだから無知であることは当然であり、誰にもそれを咎められることはない。

「あ、いや、な、何でも、無いです。」

取り繕うように呟くシン・アスカ。
ずきんと心臓を抉るような痛み。痛みとは自分自身の胸の根幹から――その痛みを埋めるように浮かび上がるエリオやキャロ、クロノ、なのは、はやての顔――ああ、”私(ココロ)”の思い出だ。その事実に酷く安堵し、胸の痛み/”自分(カラダ)”の慟哭――が、動悸となって酷くなる。
抉るように、刻むように、貫くように。
それが何を意味するのか――理解している。けれど、理解しても、尚それは度し難い。
だから――吐き出される言葉も自然、その心象に引きずり込まれる。


口を開こうとして閉じる。
伝えたい言葉はある――その返事を返す為に、此処まで来た。けれど、声が出ない。まるで声が出ない。話すべきことがあるはずなのに、言うべきことはあるはずなのに。
彼女にそれは届かない。記憶を失くしたと言うその真実が、自分の進みを遅くする。停滞させる。
彼女を見る――フェイト・T・ハラオウンを。自分が惚れた女を。失えば、幻影に見るほどに自分をおかしくさせる彼女を。
俯いたままで彼女はその場に佇む。
自分は――何も出来ずにその場に佇む。

「エリオは。」

彼女が、呟いた。
聞きたくない言葉――自分が犯した罪の名前。
彼女の顔が上がる。
こちらを見つめる紅い瞳。自分と似ているようでどこか違う紅。
険しい表情の中で輝く紅い瞳は、どこか今はもうヒトではなくなった“彼女(ステラ)”を思い出させる――代償行為で、好きになった訳でもないのにそんな風に結びつける自分の弱さが恨めしい。そんなどうでも良い愚痴すら思い浮かぶ。
こちらのそんな心中など知る筈もなく彼女が続ける――多分、自分にとって、一番苦いであろう言葉を投げかける為に。

「エリオは、貴方の――アスカさんのせいで、裏切ったんですか。」
「……。」

来た、と思った。
記憶を失くしたと言うことを聞いてから、必ず来るであろうと思っていた言葉――或いは待ち望んでいたかもしれない言葉。
心の奥を撃ち抜かれるような苦々しい痛みを感じ取り、一瞬両の手を握り締めた。
膝を付きたくなる衝動。泣き叫びたくなる衝動。叫び出したくなる衝動。掴みかかりたくなる衝動。
当然の摂理として聞かれるであろうと思っていた。
だから――耐えられる。予想通りの言葉である以上、その衝動も予想通り。

「……貴方がいなければ、エリオは裏切らなかったんですか。」

本当に――その言葉は、予想通り過ぎて、か細い吐息のような言い訳を伝えることさえ出来なかった。



「……貴方がいなければ、エリオは裏切らなかったんですか。」

彼女の口から放たれた言葉によって、彼の顔が歪んだ/ズキンと胸が痛んだ――これはただの事実確認だ。彼に何かを押し付ける気などまるでない――そんな都合の良い嘘に騙されてくれるほどフェイト・T・ハラオウンは馬鹿でもなければ阿呆でもない。
それは紛う事の無い責任転嫁――シン・アスカに責任があるかどうかなど誰にも分からないのだから。
揺れる焔のように在り様を変える彼の顔を見て、抉られたように痛む彼女の胸。
その心にうずくまりたくなる程の痛みが湧き上がる。
その痛みが酷く癇に障る。その痛みが何なのかを理解出来るから。他ならぬ彼女自身のことだからこそ、理解出来ないはずが無いのだから。

――“自分(カラダ)”を“私(ココロ)”が裏切っていることへの反作用。胸の痛みは身体が訴える恋の咆哮。

“フェイト・T・ハラオウン”はシン・アスカに恋をしているのだと伝える“自分(カラダ)”の訴えそのもの。この“私(ココロ)”を蝕むその訴え。

それを消し去る為に彼女はその言葉を放ったはずなのに――その言葉は誰よりも彼女の胸を掻き毟る。
相克する自分と自分のズレが生み出す痛み。その胸の痛みへの憤怒が、彼女の脳髄を真っ白に白熱していく。

「……私は、何も知らないから。どうしてエリオが裏切ったのか、貴方が何をしたのか。」

それは嘘だ。何かもを聞いている――それはただの責任転嫁。自分は悪くないと言いたいだけの押し付け。
そんなことは彼女も理解している。理解していて尚――感情が暴走していく。
真っ白に白熱した脳髄はいつもなら抑えるであろう彼女の全てを吐き出させていく――本心も、そうでないものも、全て。

シンの唇が真一文字に引き締められた。歪んでいく表情を引き締める為に――感情のうねりを隠す為に。
何かを言おうとする――けれど、口は開くばかりで、声を出さない。もしくは出せないのか。
それを見て――悔しさや、悲しみ、怒りに、苦しみ――その何もかもが、フェイトの胸の中に湧き上がり、何かを吐きだそうとした。
それは多分言ってはいけない言葉。誰に対してであろうと――言ってしまえば、何かが壊れてしまうような言葉。
口が開いた――やめろ。
けれど口は動く――お願いやめて。
“自分(カラダ)”の声が“私(ココロ)”を苛み――刹那、震動が世界を揺るがし、巨大な轟音が響いた。
空気が震えるほどの轟音と震動。シェルターの直下で地震が起きたかの如く、部屋全体が揺れ動く。
態勢を崩して、転びそうになる――温かい感触。シン・アスカの右手が彼女の手を掴んでいた。

「す、すみません……アスカ、さん?」
「……フェイトさん、直ぐにバルディッシュ展開してください。」

そう呟くシン・アスカの瞳は、自分を見るのではなく、今しがた彼が入ってきた扉に向けられていた。
奥歯を噛み締めたまま、油断なく扉を見つめる、その視線には紛れもない不安の色が浮かんでいる。

(……不安?)

心中で呟きながら、その言葉の“似合わなさ”に首をかしげる。
力があるから不安など感じないなどと馬鹿なことを言うつもりは無い――ただ、何故か“らしくない”と思った。
彼のことなどまるで知りもしないのに、確信めいたモノが胸を埋め尽くしていく――それらを全て頭の片隅に放りこんで、デバイスを展開し、バリアジャケットを装着する。
何がおかしいと言えば、この状況が既におかしい、と言うよりは、致命的だ。
此処は地下に造られたシェルターである。地上でどれだけの戦闘が起ころうとも此処にその衝撃が来ることは無い。
ならば、衝撃が来るとすればどういった状況か――内部で何かが起きた、ということか。
思いつくことは一つだけ。

「……襲撃。」
「多分、そうですね。」

返答は短く、シン・アスカは自分が放り投げた大剣をいつの間にか握り締め、微動だにしない。バリアジャケットを装着する気配も無く、ただ構え続けている。

「……バリアジャケット、つけないんですか。」
「デバイス、議長に預けたまんまなん――」

言葉を言い終える前に、彼が、動いた。こちらの肩を掴んだと思えば、直ぐに引き寄せられた――否、彼がフェイトに覆い被さってきた。
脳髄が白熱する。
“私(ココロ)”が白熱する漂泊する考えられない何もかも――“私(ココロ)”は胡乱に、“自分(カラダ)”は歓喜し、何が何なのかを理解できなくさせていく。

「いやっ……。」

小さく弱々しい否定の言葉/言葉の裏に在るのは安堵。両手で彼の身体を離そうとする――力が入らない/安堵が力を奪っていく。彼に抱きしめられたことで全身の力が抜けていく/怖い怖い怖い怖い。
錯綜する意識の中で、時が止まったような瞬間の中で――涙が零れる。身体が震える。自分の思い通りにならない、この身体への憤怒/安堵=混乱の中だからこその涙――けれど、状況はそんなことなどお構いなしに変化する。所狭しと響き渡る振動と轟音。更に爆発音が鳴り響き、視界が真っ白に、粉塵が舞い散って、鼓膜が震えて、思わず彼の身体を抱きしめ返して/吐き気を催して、衝撃が走り抜け/自分が何をしているのかも分からずに、気がつけば――フェイト・T・ハラオウンは、震えることしかできなくなっていく。
強い自分はどこへ行ったのか。確固たる自分はどこへ行ったのか。何も無い――自分には何も無い。
今の彼女にとって絶対に否定できない事実――記憶を失う前の自分はシン.・アスカに恋をしていたと言う事実。
後ろめたさとやるせなさと悔しさによって成立する、彼女自身が抱くシン・アスカへの/フェイト・T・ハラオウンへの感情――悔しさ。
触れなければそんなことは想いも寄らなかった。触れてしまったことで溢れ出す“自分(カラダ)”の想い。それが“私(ココロ)”を侵食する。侵していく。犯していく。冒していく。病原菌が正常な細胞を病に冒していくようにして、正常な“私(ココロ)”が壊れた“自分(カラダ)”に侵されていく。
実感する、その恋慕/病気。
どんな憤怒もどんな悲しみもその前では無力だ――それは自分の一部が持っている感情に過ぎないのに、こんなに怯える必要も無いはずなのに、認められずに此処に残ったまま、感情が荒れ狂っていく。

「……大丈夫ですか、フェイトさん。」

自分を抱きしめたままの、シン・アスカが声をかけた。
――ふざけるな。私を返せ。

「フェイト、さん……?」

声はの調子は優しげで、慈しむように耳朶を叩く。
――ふざけるな。消えろ。私の前から消えてお願い。

「……して。」

それ以上――触れないで。踏み込まないで。
心中の慟哭。

「……離して、よ。」
「……フェイトさん?」

シンの声の調子が変化する。心配するような様子へと/安堵を覚える自分――安堵を憎悪へと転化させる。
憎悪は怯えに転化し、恐怖へと昇華する。
彼の体温が離れていく。その事実に安堵して、その事実に寂しさを覚えて、その事実に恐怖する。

(私、今――求めて、た。)

抱き締められたことで、触れられたことで、距離がゼロになったことで――体温が融け合っただけで、フェイト・T・ハラオウンはシン・アスカを求めてしまう。
半年間、気付くことは無かった――ただ陰鬱で在るだけで、こんな風に身体が壊されていることなど知りもしなかった。
悔しい。悔しい。悔しい。
自分の心が――身体が見も知らぬ誰かのモノになってしまっている事実が本当に悔しくて、悲しい。
凌辱されていく自分の心。
蹂躙されてしまった自分の身体。
触れるだけで安堵してしまう自分自身――そんなモノを認めたくないのに、認めてしまいそうになる自分自身。

「離し、て……離して、くだ、さい。」

言葉は途切れ途切れに、朦朧とした頭は明瞭な言葉使いをさせることを許さない。
彼が自分から手を離したのが見えた――怯える自分は、後ずさり、そのまま、両の手でこの身体を抱きしめるようにして、震えることに没頭する。
目を向ければ、室内はそれまでの様相とはまるで違う姿を見せつけている――どうでもいい。
通路からは紅い炎が舞い上がり、室内は今の爆発で元の様相を完全に崩している――どうでもいい。
何があったのか、何が起きたのか、皆はどうなった、生きているのか、無事なのか、私はどうなってしまうのか
幾つもの言葉と思考が乱立する――どうでもいいと断じたいのに断じれない。フェイト・T・ハラオウンの理性がどうでもよくは無い、大事なことだと断定する。
顔を上げる。彼の顔が目に入る。辛いことを我慢するような表情――胸が握りつぶされる。今すぐ抱きしめたくなる衝動。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

「キャロや、ティアナや、スバル、は。」

絞り出すような声。それ以上の言葉を出すことが出来ない。

「探しに行きましょう――フェイトさんも一緒に来てください。」
「……あ、アスカ、さん?」

彼に手を握りしめられた――顔を背ける。胸が痛い悲しい辛い――安堵して、その安堵にこそ憎悪する。
境界面が融け合って消失する。何もかもが曖昧になっていく。
手を繋いだまま、逆の手に大剣を構え――彼はデバイスが無ければ魔法をまともに使うことも“出来なかったはず”なのに――背を向けて、呟いた。

「出口は。」
「……え。」

鸚鵡返しをすることも出来ない胡乱な思考。
自分は子供のように彼に手を引っ張られるまま――震えが彼に伝播していくのを止められないでいる。
咄嗟に手を振って、離す。彼の表情が一瞬だけ、険しくなった、が、次の瞬間にはそんなものは露と消えていく。

「……さっき入ってきた所以外に出口はあるんですか?」
「それは――。」
『It’s this route.』

バルディッシュがこちらの返答を待たずに、シン・アスカに向けて返答し、空間に地図を映し始める――映し出されたモノは、この場から最も近い脱出口。下水道への脱出口。

「……バルディッシュ、これでいけるのか?」
『Yes.』
「何を……するんですか。」
「さっきも言いましたけど……多分、これは敵の襲撃です。」

地図を睨みながら、彼が呟いた。
口調は、ただ滑らかに淀み無く流れていく。

「もし、そうなら――議長はもう逃げ出してます。多分、スバルやキャロにティアナ――それに他の皆も、一緒に逃げてるはずです。あの人は、そういう割り切り方が物凄く早い。」

喰い入るように地図を見つめるシン・アスカ。脳裏にその映像を叩きこんでいるのだろう。その仕草からはどこか手慣れた雰囲気が醸し出されている。

「逃げる、って。」

こちらの呟きにシン・アスカが瞳を向けてくる。真剣な眼差し。見つめられる朱には迷いや逡巡など微塵も見られない。

「これが敵の襲撃なら、逃げるしかないんですよ。俺たちは追いつめられた鼠と同じなんだから。」

淡々と事実だけを紡ぐシン・アスカの言葉。
地下施設と言うものの最大の利点とは、見つかり難いと言うことである。地下と言う本来建物が存在しない場所に作るからこそ、見つからない――それが地下施設だ。地上からは見えないし、空中からも見えない。
だが、見つかってしまえば、その出入の難しさが仇となる。隠密性を高める為に出入口を減らした結果――今度は逃げる場所が酷く限定されることになる。
彼の言う通り、この場所を見つかった時点で袋小路に追い詰められた鼠と同じなのだ。
けれど――

「何で、デュランダルさんが逃げたって思うんですか。何で、そんな……」
「それなりに付き合いが深いんですよ、あの人とは。それに――」

一拍を置いて、続ける。
シン・アスカが右手の大剣――デスティニーとは違う――を見つめる。どこか頼りなさげで、不安な視線で。

「俺の持ってたデバイスと通信が繋がらない。多分、向こうで切ってる。」

確信の籠った口調。
デバイスが勝手に通信を途絶する――そんな信じられないことを平然と彼は言い放つ。

「多分――アイツはデュランダルさん、と一緒に脱出してる、と思います。繋がらないって言うのは、俺たちの場所を“敵に”知らせない為だろうし。」

誇るように呟くシン・アスカを眺める。繋がれていた手を振って、彼が歩いていく。
彼の歩調は先程よりも少し遅く――ごく自然にこちらの歩幅に合わせてきている。
呟く言葉は殊の外、理知的な内容でそれまでの彼への印象と噛み合わない。
記憶は無い。なのに茫漠とした印象によって、形作られるシン・アスカと言う男は、もっと考え無しの猪突猛進だった気がする――徐々に落ち着いていく自分に気付く。
触れ合わないまま、僅かに離れたまま、その距離に慣れていくことで、自身の異常をすり減らしていく。

「だから、逃げた以外には考えられない……って、どうかしましたか?」

黙り込んだまま、ぼうっと彼を見ていた自分に声がかけられた。

「あ、いや……なんか、思ったより、考えて動いてるんだなって。」

シン・アスカの唇が引くついた。
考えてみれば、これは馬鹿だと思っていたと白状するようなモノだった。

「……まあ、考え無しなのは否定しませんけど。」

ぷい、と顔を背けるシン――それはまるで子供が恥ずかしがるのと同じ、20歳と言う年齢には似合わない態度だ。
彼のそんな態度に新鮮味を感じて口元に微笑が浮かぶ――のを抑え込み、その後ろに追随するように歩いていく。彼は何も喋らない。
二人揃って無言のまま歩いていく。
通路は思っていたよりも、炎に包まれておらず、人が歩く程度の空白を残していた。
散乱する瓦礫。砕け散った鋳鉄管。暗い青色のパイプもそこかしこで剥き出しになっており、中からは、パチパチと火花を散らす電線が見えた。
襲撃かどうかは未だ判別がつかない――どこかの動力部に異常が起きて施設全体に異常が起きたのだろう。

「……。」
「……。」

無言のまま、歩き続ける。
目指す場所はスバルとティアナとキャロがいるはずの訓練場。
通路の惨状から察するに、もしこの被害に巻き込まれていれば彼女たちもただでは済まないかもしれない――そんなことは無いと思う。思うけれど、不安は止まずに沈澱していく。
あの子たちには自分の保護などもう必要は無いと、そう思っても不安に思う気持ちは少なからず存在してしまう。
特に、キャロ。彼女は確かに成長している――自分を置き去りにしている。
けれど、それでも子供は子供。
親と言うモノが子供にとって一生、親であるのと同じく、子供と言うモノは親にとって一生、子供なのだ。その間柄は変わらない――エリオがいなくなったことでそんな想いはずっと強くなった。
だから彼女の成長やエリオの離別が寂しかった。子供の成長とは親からの自立を意味する。自立とは離別だから――精神的にも、物理的にも。

「この部屋、ですよね。」
「……そう、ですね。」

扉に手を掛けて開ける。

「……いない、ですね。」

予想通り、開かれた室内には誰もいない。ここまでの通路とは違い、衝撃や振動によってのみ荒らされたのか、炎は室内に波存在しない。そして、血痕やそれに類するモノは一つも見つけられなかった。
シン・アスカの言う通りに全員既に逃げたのか、違うのか。この状況ではそれすらも判別出来ない。
寂しさに裏打ちされた土台を根幹に不安が育っていく。
バルディッシュを通して、何度も何度も念話による通信を送ってはいるが、返ってくるのは不明瞭なノイズばかり。
ノイズは不安を煽るばかりで、打ち消す役割は果たさない。

「……キャロ。」

小さく呟き、室内をもう一度見渡してみる。
訓練場と言うだけあって、広大とは言わないまでも十分な広さを持った室内。その中に散乱する書類や瓦礫、壁面材。何も無い。
溜め息が零れて、悲嘆に暮れそうになる。念話は今も繋がらないまま――それでもと思って、念話を送る。
返事は無い。ノイズばかりが耳に届く。

「……皆、どうなったんですかね。」
「生きてます、きっと。そんな簡単に殺されるような奴らじゃない。」

そう答えながら、彼は部屋中を歩き回り、何かを探していた。
こちらには眼も暮れずに一心不乱に。

「……何、してるんですか?」
「……フェイトさんはギルバート・デュランダルとハイネ・ヴェステンフェルス、あの二人のこと、どう思います?」

彼はこちらの質問には答えず質問で返してきた。
その間も彼は手を止めない。瓦礫を動かし、書類を一枚一枚見て回り、何かを懸命に探している。
ギルバート・デュランダル。ハイネ・ヴェステンフェルス。
実のところ、彼女を含めた全員が彼らのことを完全に信用している訳ではない。
フェイトにとっては記憶を失くした間のことだが――彼女達が管理局を離れたのは別に管理局に離反したかったからではない。それまでの全ての元凶はカリム・グラシアだった、という理由が根底にある。
八神はやてが更迭されたのも、ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンが殺されたのも、シン・アスカが完膚なきまでに壊されたのも――全て、カリム・グラシアが黒幕だった。
どうして、彼女がそんなことをしたのかは分からない。世界を救う為というのが理由だが――今となってはそれが本当なのか、どうかさえ分からない。
そんな状況で彼女達は、ギルバート・デュランダル達を頼るしかなかったと言うのが本音だ。
得体の知れない敵から逃げるために得体の知れない敵か味方も分からない相手に縋り付いた――内約すればそんな程度。信用しているかと問われれば――信用はしているだろうが、信頼はしていない。
だから、どう思っているかと聞かれれば、

「……油断できないけど、しっかりしてる、とかですけど。」
「油断できない……はは、確かにそうですね。」

そう答えるとシンは、言外にざまあみろとでも言いたげな子供っぽい微笑みを浮かべて、話し出す。
その間も手は休めずに室内を物色し続ける。

「フェイトさんの言う通り、油断なんて出来る訳無い――どう見たって、あの人達も胡散臭いんだから。」

確認し終えた書類を適当に纏めていく。大雑把という表現が良く似合う動作。纏めていくうちに、書類の山が壊れた――僅かに顔をしかめるも、そのままにして、次の書類を物色する。
いい加減というか、あまりこういった作業は得意では無いのかもしれない。

「けど、あの人達は目的を遂げるまでは絶対に“終わらない”。しっかりしてるんですよ、あの人達は。」

言いながらも手は休めない。次へ、次へと部屋中を物色していく。

「だから――あの人が“俺”やフェイトさんを切り捨てるなんてことはありえない。きっと残してるはずなんですよ、何かを。」
「何か……って。」
「書き置きか何かを残してる……筈なんです。デスティニーが俺に無断で行ったのってそういうことだろうし。」

平然と呟きながら、書き置き――もしくはそれに類する何かを探していくシン・アスカ。
それは、不思議な言葉だった。
“デスティニーが俺に無断で行った”。
デバイスが独断専行を行った挙句に主を放って逃げる。その時点でありえないことなのに、主は主でデバイスには何らかの理由があるのだろうと疑ってすらいない。
信頼関係。それもかなり強固な――それこそ互いが互いに裏切ることなどありえないと断定できるような信じられないほどの絆。

「……どうかしましたか?」
「いや……信じてるんだなって思って。そのデバイスのこと、家族みたいに聞こえるから。」

呟きを聞いてシン・アスカの顔に少しだけ翳りが差し込む。ほんの僅か――気付かないくらいの翳り。

「実際、家族みたいなもんだから……信じないとかはありえないんですよ、俺とアイツの場合は。」

シン・アスカはそう言って黙り込み、作業に没頭する。
自分もまた黙り込む。時間は無い――だから、本当はこんな話をしている暇など無いのに、どうして話をしようと思ったのか。
何を探しているのかも分からない自分にはそれを手伝うことすら出来ない。けれど何もしなければ手持ち無沙汰になる。不安が募っていく――その暇に耐え切れずに声を掛けた。そういう部分は確かにある。
けれど――本当はどうなのだろうか。
私の心はまるでざわつかない。何も考えないで、ただ和やかに穏やかに――こんなことをしている場合ではないのに、慌てる様子がどこにも無い。
それに本来は感じなければいけないはずの悔しさも少しだけ――本当に少しだけ薄れている。ほんの僅かの変化だけれど、それは、致命的な、看過してはならない変化だ。
その時、書類を漁っていたシン・アスカが呟いた。

「……あった。」

手元には封筒――宛て名は“Dear Friend”と綺麗な文字で書かれている。
彼が、封筒の上端を破り封を開ける。

「何が、ディアフレンドだ……もっと分かりやすくしろっての。」

毒づきつつも、頬を緩ませて、彼がその封筒の中身を取りだした。
入っていたのは一枚の紙切れ。文字のみが記されている――筆跡は封筒とはまるで違う綺麗な文字。事務的な文章で書かれている内容に自分は目を丸くして、驚きを隠せなかった。

「……2週間後、ベルカ自治領聖王教会本部に集合、って、これは。」
「2週間後までに此処に来いってことでしょうね。」

シン・アスカが、文面を人差指で叩いた。書いてある地名は“ベルカ自治領バルドセルク”――聖王教会本部が存在する都市。
それ以上のことは何も書いていない。
文面から読み取れるのはそこまで。いつ、どこで、どうやって、何をするのか、何も書かれてはいない――そこまで書く余裕が無かったのか、それとも書かなかったのか。或いはその両方なのか。
どくん、と胸が鼓動する。
これは――最後通告だ。いつか来るとは思っていたけれど、まさかこんなに急に決まるとは――覚悟なら全員既に決めている。皆、ソレがいつなのかを待ち望んでいたのだから。
――覚悟の決まらない私だけがこんな風に浮足立っている。聖王教会に表立って反逆すると言うことは、この世界全てに反旗を翻すに等しい。その覚悟が、踏ん切りがつかないでいる。
それは――

「……フェイトさん。」
「……え? あ、はい。」

ぼうっとしていたこちらを怪訝な顔で見つめながら、シン・アスカが口を開く。

「ここまでの行き方分かりますか?」
「……え、と……一度行ったことはあるから、分かる……と思いますけど。」

その声に反応して、朱い瞳がこちらを覗き込む。
ただただ本気の気持ちによって紡がれる視線が自分を射抜く。

「だったら、俺をそこまで連れて行ってくれませんか?」

自分と違って、逡巡など一切無く、シン・アスカは答えた。
迷いの無い瞳が自分を――フェイト・T・ハラオウンを射抜く。

「……アスカさんを、私が、連れていく……?」
「フェイトさんも行くでしょう?だから、一緒にって思って。」

何でもないことのように彼は言う。その瞳は私がそれを断るなどまるで思っていない――胸が痛い。その真っ直ぐな瞳が何より痛い。
断るコトは出来ない。断れば、自分はその時点でギンガやヴィヴィオを見殺しにすることになる。
受け入れるしかない。
そうでなければ自分は一生自分を許せなくなる――それは、なんて胡散臭くて、薄っぺらい言葉なんだろうか。
自分の心はギンガ・ナカジマを見殺しにすることを――ほんの僅かとは言え――考えたことがあるのだから、そんな言葉を発する資格がある訳が無いのに。
朱い瞳に射抜かれることで気圧されたように感じるのは、そんな後ろめたさのせいで、どんな言い訳を発することも出来なくなっているから。
彼は、フェイト・T・ハラオウンは絶対に行くものだと確信して――その確信が痛い。
何と思われようとも構わないはずなのに、幻滅されるのが怖い。
その矛盾から逃れられない――好かれたいのに好かれたくないと言う、決定的な矛盾から。
私は返事を返すことも出来ずに、沈黙する。
沈黙を了解と取ったのか、彼が言葉を呟いた。その朱い瞳が少しだけ寂寥に揺れる――自分には向けない瞳を、どこか遠くに向けていた。

「きっと。」

僅かに乾いた彼の唇が動く。
朱い瞳に決意と覚悟と欲望が灯る――揺らめきつつも、盛り続ける炎。

「……きっと、ギンガさんはそこにいる。」

ずきん、と。
痛みが走った。
決然と呟いた彼の声を聞いて、彼の表情を見て、その瞳に映る欲望を感じ取って――心臓に杭が打ち込まれた。手足の末端にまで電流が走り抜けた。
膝が折れる。このまま座り込んで、思考することを放棄したい――そんなのは許されない、と足に力を込めて、その脱力を否定する。
唇を閉じて、息を静かに吸い込み、深呼吸――落ち着け。
それは“私(ココロ)”には関係の無いことだ。“自分(カラダ)”が勝手に思っているだけの嫉妬に過ぎない。
けれど、その嫉妬は――“私(ココロ)”の意識を変容させかねないほどに強大で醜悪で無様なモノ。
シン・アスカなどを好きになった覚えは無いのに、私はそんな感情に支配されてどうにかなりそうになっている。

「フェイトさん?」

彼が顔を近づけてくる。黙り込んだ自分を変に思ったのだろう――近づいたと行っても数十cm程度の話だ。触れ合うほどに近くなった訳ではない。
なのに――自分は顔を背けた。その顔を見ていられなかった。ほんの数十cmの距離が消失しただけなのに、知らぬ間に自分の頬――と言うよりも全身が――は真っ赤に紅潮していたのだから。
俯いたまま、取り繕うように口を開いた。こんな自分の顔を彼に見せるたくはないから。

「……アスカさんは、怖くないんですか。」

呟いた言葉は、大事なこと、だけど――取り繕うように言うべきことではない。
本当は本気で伝えなければいけないことであり、本来なら、思うべきですらないこと。

「怖い?」
「キャロやスバル、ティアナのこと、まるで心配してなさそうだから……」

途切れ途切れになりそうな言葉を絡めて纏めて、言い放つ。
シン・アスカの返答は眩しさすら感じるほどに単純明快なモノだった。

「……大丈夫ですよ。あいつらがそんな簡単にやられるわけが無い。それは、フェイトさんが一番知ってるはずです。」
「そうです、けど……」

彼の言う通りだ。キャロやスバル、ティアナはそんな簡単に倒されるほど弱くは無い――だが、自分はそれでも怖い。
逸れてしまったことが――自分の目の届く範囲にあの子達がいないことがどうしようもなく怖い。
信じられない弱さ、なのかもしれない。
あの子達の強さを信じられない自分の弱さ――そんな気持ちは無いはずなのに。
鎌首をもたげてくる、その弱さに抗うことが出来ない。
俯く自分を見て、彼の両手が自分の手に触れようとする――寸前で、咄嗟に私は手を引いた。
また彼の顔が歪み、私の心を揺れ動かしていく――伸ばした手を握り締めて、彼が呟いた。

「……大丈夫、大丈夫ですよ。」

私を射抜く朱い瞳は笑顔だった。
どこか痛々しさを感じさせる笑顔で、彼は続ける。

「デュランダル議長も……ハイネも、デスティニーもいる。だからきっと大丈夫です。それにあいつらはそんな簡単に諦めたりはしない。きっと……あいつらは、大丈夫です。」

それは、まるで――自分に言い聞かせるような声音だった。
痛々しい笑顔。少し前に彼が自分の手を握って、泣いた時のような、嬉しそうな笑顔ではなく、ただ貼り付けたような、そんな痛々しい笑顔。

「アス……」
「行きましょう、フェイトさん。」

彼が再度手を伸ばし、私はまた反射的に手を引いてしまう。
滑稽な仕草の繰り返し。彼の頬は歪むことは無い――慣れたのか、それとも歪みを隠しているのか。

(慣れるはずが無い、よね。)

そう、慣れる筈が無い。どんな人間であろうと好きな人にこんな態度を取られて、慣れる筈が――そんな言葉を胸中で呟いたとき、僅かに違和感を覚えた。
それは、多分気付いてはいけない――けれど、気付かなくては何も始まらない違和感。
“好きな人にこんな態度を取られて”――それは、おかしい。

「ここでこうしていても仕方ないし……フェイトさん?」
「……アスカ、さんは。」

昔の自分は彼を好きでいた。
昔のギンガも彼のことを好きでいた。
記憶を失う前の私達は二人共に彼を好きでいた――彼はそんな昔の私達に返事を返すことも無かった。正確には返すことも出来なかった。
だから、彼の気持ちというものを誰も知らない。彼が何を思っているのか。その事実だけが、ストンと抜け落ちてしまっている。

「アスカさんは……。」

――誰を好きなんですか、という言葉へと声が続いていかない。
その先の質問に繋がらない。その質問に返って来る言葉が、どうしようもないほどに怖い。

「フェイトさん?」

シン・アスカの声が響く。
何も言えないまま、私はそこにいた。
怖いことが悔しくて、怖いことが悲しくて、怖いことが嬉しくて――私は何も出来ないまま、馬鹿みたいに立ち尽くしていた。

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二人の葛藤、読み応えがありますなあ
シン頑張れ!ヒロイン攻略までもうすぐだw
そういやサブヒロ二人はどうしてんだろ
続き楽しみにしてます
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