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空想垂れ流し Vol.5.季節は続く

Vol.5.季節は続く


 気がつけば、ヴェロッサの家で毛布を掛けられて、椅子に座りこんで眠っていた。
 眼を開ければ、時刻は7時。
 懐のデバイスを見ても着信履歴には誰の名前も無い――恐らくヴェロッサが連絡してく
れたのだろう。でなければ、今頃起きだしているフェイトから連絡が無い訳が無いのだか
ら。
 立ち上がり、隣に置いてあった自分の服――乾かされ綺麗に折り畳まれている――に着
替え、さっきまで自分が寝ていた寝室に向かう。
 ヴェロッサが寝息を立てて眠っていた。

「・・・・相変わらず抜け目無いよ、アンタはさ。」

 気だるげに呟くと、シンは踵を返し、元いた部屋に戻り、自身が羽織っていた黒いコー
トを手に取るとそのまま出口に向かって歩いていく。
 ドアノブに手を掛けて、外に出る。
 もう雪は降り終わっていた。

 ――真逆のような二人はこうして別れていく。
 これは、幸せを求めた男と迷い続ける男の物語。


 雪はいつの間にか降り止んでいた。
 後方に目を向けるとはやてがテキパキと今日のランチの仕込みを行っている。
 その仕草は流れるようで本当に無駄が無い。
 親友のこういう所は本当に見習いたいと思う。

「・・・・フェイトちゃん、どうしたん?」
「あ、ごめん、手が止まっちゃってた。」

 はやてと眼が合った。サボっている――つもりはなかったけど、物思いに耽っていたら、
自然と手が止まっていた。

「シンのこと、気になっとるん?」
「・・・・うん。」

 シン・アスカ。好きな人――と言うか旦那と言っても良いような関係の人。ずっと一緒に
いると約束した人。

「・・・・結局、シン帰ってこなかったね。」
「ヴェロッサから連絡はあったんやし、そんなに心配せんでもええと思うよ?子供やない
んやし、分別くらいはあるやろうし。」

 親友が言った言葉にすかさず一言付け加える。

「はやて、シンって私とギンガと二股してるんだよ?」

 一瞬の間。時が止まったようにはやては口を閉じて――

「・・・・無いね。」

 そう呟きながら棚からコーヒー豆を取りだす。手が届かないから、台を使って棚から取
り出すその様はどこか小動物のような愛らしさに満ちている。
 はやてと眼が合った。

「何や、フェイトちゃん、どないしたん?」
「あ、ううん、何でもないよ。」

 返答を返し、自分もランチの仕込みに戻る。
 今の問答を思い出し、苦笑する。
 シンにそんな分別があったら、私は此処にいない。きっといない。
 そんな確信がある。
 分別が無いから私たち二人の両方に惚れてしまった。どんなことになってもそれを貫き
通した。
 この関係を維持するためにシンが支払った代償だって大きい。
 結局、シンは管理局にはいられなかった。元々強引な手法で抜擢され、周りからはあま
り良い目で見られていなかったこともあった上に結果的に管理局と敵対してしまった――在籍
できるはずも無い。
 それに、シンにはシンのやりたいことがあった。その結果が、今の生活なのだ。
 無論、世の中に認められるものじゃない。
 当然のことながら世間は二股なんて言う非常識には冷たい。私立探偵という職業だって
真っ当と言う言葉からは程遠い。
 母さんだって、心の底から認めてくれている訳じゃない――それは当然だ。仮に私が母
さんの立場ならきっと同じことを思う。
 それでも――今が幸せだと思う、この気持ちに嘘は無い。
 幸せとは誰かの為では無く、自分の為に紡ぐ物。
 そう考えると――まあ、こういうのもありなのかも、と思う。
 分別が無いから幸せになれた、と言うのも酷く変な話なのだろうけど。

「・・・・まあ、そういうの無いから、シンなんだろうし。」
 
 小さく、呟いた。はやてには聞こえないように続いて、そっと――私の胸にだけ聞こ
えるようなそんな声で、もう一度呟いた。

「それに・・・・分別が無いのは私もギンガもだし、ね。」

 そんな馬鹿な呟きは空気に溶けて消えていく。
 どこにも辿りつかない――けど、自分だけが知ってるそんな囁き。

「・・・・フェイトちゃん、手、とまっとるで。」
「あ、ご、ごめん、はやて。」
「・・・・シンのこと考えとったやろ?」
「う」

 完全にバレていた。はやてがこちらをニヤニヤしながら見つめている。

「え、えへへへ。」
「・・・・まあ、何考えてもええけど、仕事はちゃんとしような?」
「はーい。」

 そう、声を返して――私もランチの仕込みを始める。
 さっきギンガから連絡があった。雪が止んだの今日の夜には帰れるそうだ。
 その事実に微笑みを浮かべる
 今日の夜にはギンガも帰ってきて、三人一緒のバレンタインだ――少しだけ遅れた、けど
その分楽しいバレンタインがそこにあると思うと、私は何だか嬉しくなってニヤニヤと微笑
むのをやめられない。

「・・・・楽しみだなあ。」

 本当に夜が来るのが楽しみだった。


 雪は降り止み、日の光が差し込んでいるが――結果として、それはより気温を下げること
になる。放射冷却現象によって、地表の熱が失われ、雪などが降っている時よりも寒くなるのだ。

 既に、実家に帰ってから数日が経過している。
 スバルは何とか休暇を増やしてもらい――というかスバルも雪のせいで身動きが取れなか
ったのだが――久しぶりの家族団欒を楽しみながらの、数日間は確かに楽しかったが、だか
らと言って家に戻りたくない訳でもないのは人情だ。
 実際、自分の家は実家ではなく、あのアパートの一室なのだと言う実感がある。
 家ではなく“実家”と呼んでしまうことは、自分が既にこの家の住人ではないということ
――家を出て嫁に行ったということを実感させる。まだ嫁には行っていないが似たようなモノだ。
 そうしてそのまま数日間。スバルと一緒に食っては寝て食っては寝てを繰り返し、昔の友
達と再会してファミレスでお喋りを続けたり――ちなみに昔の友達は殆ど結婚していた。
 少しだけ焦燥があった――別に周りが結婚していたことに焦った訳ではなく、こちらに来
た経緯が経緯だったから。

「・・・・まさか、こんなにこっちにいることになるとは。」
「羽伸ばせて良かったと思うよ?」

 隣でアイスを食べながら、スバルが呟いた。

「・・・・乙女は色々複雑なのよ。」
「乙女じゃないのに、よく言うね。」
「・・・・あんた、何てこと言ってるのよ。」

 隣にいる妹は昔とは違い、髪を肩にかかる程度にまで伸ばしている。
 昔はもっと可愛かった、というか素直だったのにいつの間にかこんな風にツッコミ上手に
なってしまって、姉としては非常に悲しかったりもする。
 スバルがアイスを食べ終え、時計に目を向けた。

「ギン姉、電車の時間は?」
「あと・・・・2時間くらいあるわね。ちょっと早く来すぎたかも。」

 この後電車に揺られて、空港まで赴き、そこからクラナガンへ向かう。
 合計して7時間近くの大移動。里帰りもなかなかに大変だ。

「その後、さっき言ってたみたいに三人でバレンタイン?」
「フェイトさんはそう言ってた。シンは・・・・まだ、帰ってなかったみたいだけど。」
「ヴェロッサさんと?」
「うん、一緒にいるみたい。」
「・・・・何やって遊んでるんだろう、あの二人。」
「ゲームしてるか、飲んでるかのどっちかじゃない? ウイニングイレブンとかやってたわよ、
こないだ。」
「・・・・意外。」
「結構俗っぽい人よ、あの人。意外にシンとも気が合うようだし・・・・って、何よ、スバル、
その顔。」

 隣を見れば、スバルがニヤニヤと笑っていた。

「いや、成長したなあって思って。昔だったら、文句くらいは言ってたのに。」
「・・・・五年、一緒にいるんだもの。そりゃ、成長くらいはするわよ。それに――」
「それに?」
「ううん、気にしないで。」

 言いよどんだギンガにスバルは不思議そうに目を向けて、再びアイスを口に運び始める。
 それを横目に私はこの間のことを思い出す。
 許す――というか気にしない理由はこの間のシンとの喧嘩のことがあるからだった。
 あれは半分以上、私が悪い。シンが気づかなかったのは、前日まで仕事で張り込みをしていた
訳だから忘れていても仕方がないのだし――本当にあの時怒ったのは、フェイトさんがベッドの
中にいたからだとかではなく、単にバレンタインを忘れていたことだけに尽きる。
 だっていうのに、勝手に怒って、勝手に家を出て、大雪のせいで帰れなくなって。
 単に、バツが悪いだけ、とも言う。

(信じてはいるんだけど・・・・やっぱり不安なのかな。)

 浮気の心配はしていない。酷い言い方だが、シンにそんな甲斐性は無い。そんな風に器用な男
なら、二股なんていう馬鹿なことはしない。
 不安に思うことの方がシンに対して失礼なのかもしれない――そう思って、溜め息を吐こうと
すると、スバルがアイスを食べ終え呟いた。

「まあ、シン君だって分別つかない訳じゃないんだし、何か変なことなんて――」
「・・・・スバル、シンに分別なんてある訳ないじゃない。」
「・・・・無いの?」
「二股してる男のどこに分別があるっていうのよ・・・・まあ、こっちも好きで一緒にいるんだから、
いいんだけど。」

 椅子の背もたれに体重をかけ、時計を見る。まだ搭乗時間には一時間以上あった。
 やっぱり早く付きすぎた。

「それに分別あったら・・・・多分、私ここにいないもの。」

 昔を思い出す。
 あの頃、春に始まって、春に終わった二年間を。

 ――父には感謝している。私があそこにいることを許してくれたことに。
 ――妹にも感謝している。私があそこにいることを笑って祝福してくれたことに。
 ――そして、“彼女”にも感謝している。自分が共にいることを受け入れてくれたのだから。
 ――最後に、“あの人”にも感謝している。私を取り戻すことを最後の最後まで諦めなかった
のだから。

 文字通り、命を懸けて、私を取り戻してくれた。分別があれば、きっと諦めている。
 馬鹿だから、潔く無いから、分別が無いから――あの人は諦めなかった。
 そんな分別の無さこそが好きなのかもしれない。
 そんな五年間一緒にいたにしては初々しい言葉を胸の中で囁いて、

「・・・・早く帰りたいなあ。」
「ホームシック?」
「かもね。」

 呟いて、帰ることを楽しみにしている自分に気がついた。
 夜が楽しみだった。


 そこは、路地裏の奥にある空きビルの一室だった。
 喫茶店赤福の跡地――今は仕事道具の“隠し場所”になっている。
 それまで座っていた椅子に深く腰掛け、背もたれに体重をかけていた。
 キィ、と音を立て軋む椅子。室内は寒い。
 テーブルの上には湯気を上げるコーヒー。置いた瞬間に埃が舞い散り、この場所がどれだけ
“忘れられていたか”を実感させる。
 コーヒーを飲み干すと、目的のモノが陳列されている棚を物色し始める――“準備”を進め
ていく。

「これと、これと・・・・これはいらね。」
 
 棚から取り出した幾つもの道具――黒いコートに黒いブーツ、黒いスラックス。全身黒ずく
めの趣味の悪い色合いの服装。
 それらを近場のテーブルの上に乗せて、更に棚から物色する。デバイス用のカートリッジが
数十個に、大型のナイフが一本、小型のナイフが六本。
 そして――

「・・・・一応、これも借りてくよ。」

 馬鹿げた大きさの、光を吸い込むような漆黒の拳銃が一丁そこにあった。
 それは、対魔働兵器戦闘用自動式拳銃――オルトロスと言う名を冠する馬鹿げた兵器だ。
 拳銃としては規格外以上の、頭がおかしいとしか言えない威容の武器。
 銃身に沿うように取り付けられた鉈。大きすぎる銃口。
 左手で握り締め、持ち上げるとズッシリとした重さを感じた。
 人には使えない武器と言う謳い文句は伊達では無いのを実感する。
 当然だ。これは最初から人を殺す為に作られた武器では無い。
 これは――“人外”を壊す為に制作された武装である。
 化け物退治の拳銃。今回のような事態には打ってつけの武装だ。
 握り締めたそれを静かにテーブルに置く。何年も放っておいた武器なので、動作不良が心配
ではあるが――恐らく大丈夫だろう。
 これを制作した人間が、そんなことも考えずに放置していたとは考え難いし――それに“使
う事も無い”。念の為だ。本当に、ただ念の為だけだ。
 自分は殺す気なんて――無い/嘘だ。
 刹那の中で交錯した自問と回答。
 苦笑すら浮かばない。浮かぶモノは嘲笑――踏ん切りのつかない自分を嘲るだけの嗤い。
 殺す気なんてない、とどの口が言えるのか。
 目の前に並べた服装――“装備”を眺める。
 その服装には幾つもの郷愁がこびり付いている。
 シンにとって、それは大切な――忘れたくも忘れられない思い出の品々だ。
 もう誰も使い手のいない武器。
 戦いの中でしか意味を見いだせないモノ達。こびり付いた郷愁も記憶も想い出も全ては戦い
に起因するものばかり。
 故に、これは“装備”。戦う為の、殺す為の――化け物殺しの準備である。
 弾倉を取り出し、中の弾丸を取り出し、新しい弾丸に取り換えていく。
 魔力と親和性の高い――デバイスコアにも使用されている、高純度の銀を弾頭に使用した弾
丸を、籠めていく。
 一発、一発、丁寧に――何かを振り切るように。
 込め続ける――どれほどの時間が経過しただろう。
 拳銃の弾倉には既に装填し終えている。三つ目の弾倉――スペアに装填していた時だった。
 その手が、止まった。
 弾倉をテーブルの上にそっと戻し、椅子に腰かけた。
 溜め息が漏れた。
 肩が重い――と言うよりも全身が重い。
 何もしていないのに、疲労が酷かった。
 理由は分かっている。
 それまでの心中の呟きが、あまりにも重いからだ。

「・・・・喰った、か」

 ――昨日、アイツは君を倒した後、人を食った。
 ぎりっと奥歯を噛み締めた。
 額に当てた右手をきつく握り締めた。
 やり場のない怒りによって、体温が上昇していく。
 その怒りをぶつける先など自分しかいない。自分以外の誰にもその怒りは届かない。

「喰ったら・・・・駄目だって、言っただろうが。」

 悔しさがある。
 信じていたのに裏切られたような、あまりにも身勝手な悔しさが。
 裏切られたと言うほどに、シン・アスカはヒノと言う“男”を知らない。
 ただ僅かな間を共にしただけだ。
 別に友達でも何でもない。分類で言えば知り合い程度。
 なのに――どうして、こんなにも悔しい。
 裏切られたことが悔しい?
 見抜けなかったことが悔しい?
 違う。
 シン・アスカは、ヒノを“殺さなくてはいけない”ことが悔しいのだ。
 殺さなくてはいけないから。
 それは自分の為でもあり、家族の為でもあり、見知らぬ誰かの為でもあり――或いは誰の為
でも無く害獣だから駆除をするという常識(ルール)の為に。
 それが悔しい。
 殺さなくてはならないと言う常識の為に誰かを殺すことが。
 そして、

「・・・・・何が殺したくない、だ。」

 その事実を未だに認め切れずに抗おうとする本音そのものが“悔しい”。

「あいつは、もう、何人も殺してるんだぞ。」

 それは誰に向けた呟きなのか――それは自分自身に向けての呟きだ。
 戦わなければならない、殺さなければならない、そう思っていながら、迷い続けるシン・アス
カに対してだ。
 何人も殺している。何人も食っている。
 存在すれば害を為す化け物。故に駆除――つまり殺害する。

「殺さなくちゃいけないんだよ。」

 己に言い聞かせるような静かな呟き。
 言葉の重みで肺が押し潰されてしまいそうだ。

「殺さなくちゃ、いけないんだよ。」

 呪文のように。呪いのように。或いは祈りのように。
 誰かに否定されることを願うが故に、同時に誰かに肯定されることを望むが故に口頭に上る声。

 殺さなくちゃいけない――そんなことは無いと誰かに言って欲しい。
 殺さなくちゃいけない――その通りだと誰かに後押ししてほしい。
 吐き出す言葉は責任転嫁を求める自分自身の弱さの表れ。
 吐き出した本人が一番そのことを知っている。
 その言葉に対する答えを、誰も持ち合わせていないことも、よく知っている。
 選ぶのはいつも自分。
 そういう道を選んで、此処にいる。
 選ばなくてはいけないのだ。
 殺すのか、殺さないのか。
 選択肢は酷薄。制限時間だって存在する。
 待っていても状況は変わらない。進んだところで状況は変わらない。
 選んで、結果を弾き出すことでしか状況は変わらない――“変えられない”。

「くそっ・・・・!!」

 毒づきながらテーブルを押し倒した。
 拳銃が床を滑り、並べていた幾つもの装備が床に散らばっていく。
 息を切らし、その光景に目をやりながら、シンは椅子に腰を落とした。
 考えはまとまらない。
 というよりも、まとまらないのが当然だろう。
 選択と言うモノは“どちらかを選び、どちらかを捨てる”ことを意味する。
 どちらも選んで、どちらも手に入れようなどと言う虫の良い話は確かに現実に存在するが――
そんな選択肢すら無い話だって、どこにでも存在している。
 むしろ、世界とはそんなクソッタレな話ばっかりなのだ。
 椅子に座りこんだまま、シンは動かない。表情は変わらず苦いままで、ずっと天井を眺め続けている。
 時に虚ろに、時に燃え上がり、時に消沈する、浮き沈みの激しい意思がそこに映っている。

 時計に目をやれば、時刻は既に13時を過ぎている。
 あとどれくらいで、ヒノが現れるのかは分からないが――ミノルの手術が終わり病室に戻る時
刻を過ぎてからなのは間違いない。
 先程、病院に電話して、例の女医から話を聞いたところによると手術の開始時刻は16時。終
わるのは20時くらいだろうということ。
 つまり21時以降にヒノが現れる。ヒノがどうやって、その時刻を調べたのと言えば――少な
くとも見た目は人の良さそうな優男だ。家族だと言えば話してしまっても不思議ではない。
 つまり、あと7時間。
 あと7時間で戦いは始まる。
 それは――どう足掻いても変わらない。
 ここで迷っていても、ただ時間が過ぎていくだけだ。

「・・・・行くしかないよな。どっちにしたって。」

 そう、観念するように呟くと、立ちあがって床に散らばった装備を集めていき、着替え始めた。
 ジーンズを脱ぎ散らかし、スラックスに履き替え、ベルトを締める。
 靴をブーツに履き替え、紐を締める。
 コートを羽織り、ジッパーを締める。
 黒い革手袋に両手を通し、握り締めて開くを繰り返し動作を確認する。
 両手を回し、動作を確認する。
 ブーツの裏面で床を叩き、動作を確認する。
 習慣的とも言って良い動作の確認を繰り返す。
 次に床に散らばったナイフをコートの中に収めていき――最後に拳銃と弾倉を鞄の中に押し込んだ。
 迷いは今も変わらない。
 正直、このまま戦闘の場に赴いたところで、どうなるのか分からない。
 何が出来るのかも分からない。
 殺すのか。殺さないのか。殺されるのか。殺されないのか。
 何も分からない。

「・・・・あとは、こいつか。」

 それまで着ていたコートからデバイスを取り出し、懐に仕舞い込む。
 その時、ちゃりんと音がした。金属が落ちる音。
 何かと思い、床を見れば、そこには黒い直方体の形をした――細長いシガレットケースのようなモノ
が落ちていた。

「・・・・迷ってるのもお見通し、か。」

 シンは、苦笑しつつ、ソレを手に取り、ポケットにしまい込み――そこを後にする。
 表情は晴れない。
 何も分からないまま。
 迷い続けたまま、彼はその場を後にする。
 ヒノが現れるであろう20時まではまだ7時間。手術が始まるのは16時――まだ、時間はあった。
 だから始まる前に、行っておきたい場所があった。行かなきゃいけない場所があった。



 病室の前でノックをしようとして立ち往生すること、数十分。
 手術前で不安がっているであろうミノルを僅かでも元気づけようと思い、此処に来たのだが――情け
ないことにまるで踏ん切りがつかないでいた。 

――流石にコートや荷物の入ったカバンは全てコインロッカーに隠してきた。質量兵器等を持っている
ことが知られて捕まるなど最悪だ。全身黒ずくめと言うことに関しては一応、元々着ていたコートを羽
織ることにした。

 目の前の扉を睨む。何を言えばいいのかがまるで分からない。
 これから、キミの“お父さん”と殺し合いをしますとでもいうのだろうか。
 どうするのかすら何も決めていないというのに――何を言うことが出来るだろうか。

「・・・・馬鹿か、俺は。」

 ドアノブから手を離す。自分の考えもまとまらないまま、此処に来て――それで何が出来る訳も無い。
 踵を返して、今来た道を戻ろうとする。
 時間は、まだある。
 迷うにはちょうど良い程度の時間――

「・・・・もしかして、アスカおじさん?」

 背後の扉が開き、中から声が聞こえてきた。

「・・・・だから俺はお兄さんだと何回言えば・・・・いや、もういいや。」

 溜め息を吐き、振り向く。右手が握りこまれた。
 そこには以前来た時同じように瞳を包帯で覆った少年――ミノル・オカザキが自分の手を握っていた。
 その後ろに彼を支えるように付きそう男性。
 眼鏡をかけた白髪交じりの人の良さそうな男性――どこか顔つきがミノルに似ている。 

「あ、家族の人ですか?」
「ミノルのお友達ですか?」

 眼が合った。
 男が柔らかに微笑む。

「え、いや・・・・俺は、その」
「・・・・何で緊張してるのよ、キミ。」
「・・・・いきなり驚かすなよ。」
「あ、先生。」
「ミノル君、手術前だから静かにしなきゃって言ったよね・・・・まあ、叔父さんとか来てくれたから嬉し
くなってるのも分かるんだけどね。」
「先生、手術は・・・・」
「あ、まだ先です。時間通りに行いますので・・・・ほら、キミはこっち。」
 
 ぐいっと手が引っ張られた。

「え、ちょ、何だよ!?」
「・・・・家族団欒の邪魔してんじゃないわよ。」

 耳元で囁かれる声。

「・・・へ?」

 むんずと手を掴まれた。

「・・・・いいからこっちに来なさい。」
「え、あ、おい、ちょっと」

 女医はこちらの言葉など聞こえていないとばかりに、ミノルに対してにこやかに笑いながら振り返り――

「それじゃ、ミノル君また後でね?」
「あれ、アスカおじさん?」
「あ、あはは、俺も手術終わってから・・・・明日また来るわ。」

 シンは何も分からないまま、手を振ってそこを離れて行った。
 ミノルは不思議そうにこちらを見つめていて――けれど、その瞳には以前のような不安は見て取れなかった。
 それが、何故か寂しかった。


「・・・・それで、今日は単に励ましに来たの?」
「ちょっとは信用しろよな?」

 屋上――女医に連れてこられた。
 シンは屋上の床に座り込み、女医は柵に手を掛けて白衣の内側からタバコを取り出した。
 銘柄はフォルテッシモ。細く長いメンソール。彼女がそれを咥えて火をつける。その口から紫煙が吐き
出された――メンソールの独特な匂いが鼻腔をくすぐる。

「・・・・まあ、それならいいけど。あんまりあの二人の団欒邪魔しない方がいいわよ。」
「・・・・何かあるのか?」
「別に――ただ、家族ごっこから本当の家族になる訳だから、探偵なんて言う訳分かんない輩がいたら、
まずいって思ったのよ。」

 そう言って、煙草と同じく白衣の中から携帯灰皿を取り出し、煙草の灰をそこに落としていく。
 シンは柵越しに見える部屋――ミノルの部屋に目をやりながら、小さくつぶやいた。

「・・・・引き取るって話か。」

 ミノルを引き取る。
 以前にも女医が言っていたことだ。
 叔父夫婦が引き取ろうとしている、と。

「そう。それが決まったらしいわ。」

 吐息と共に紫煙が吐き出されていく。
 院内は基本的に禁煙であり、屋上は危険である為、立入禁止なのが常であるが――女医はあまりそう
いうことに関心が無いらしい。
 問題だらけの女医だが――これで、患者からの人気は高いようだ。看護婦などにとっても憧れの的だ
とか。

「女医が屋上で煙草吸うってのもシュールだな。」
「そう? ドラマみたいでかっこいいでしょ?」

 ドラマ――そう、確かにドラマのようだ。
 目の前で煙草を吸っている女医ではなく、ヒノとミノルの関係が。

「・・・・それはともかく、あの三人、今が一番大事な時期なんだから。なるべく邪魔はしないこと。いい
わね?」
「・・・・ああ、分かったよ。」

 シンの呟きを聞いた女医が満足したのか、煙草の灰を携帯灰皿に落とした。
 彼はただ部屋を眺めている。
 酷く楽しそうなミノルと叔父を、ただ見ていた。

「あのさ、あの子――ミノル君はそれどう思ってるんだ?」
「喜んでたわ。“お父さん”がいなくなって、もう結構経ってるんだもの。」

 彼女の言う通り――だった。
 “お父さん”がいなくなってから、既に一月以上が経過している。
 子供にとっての一ケ月と言うのは大人にとっての一ケ月よりもはるかに長い。
 年月としては同じでも、感覚としては倍以上の長さだろう。
 大人にとって耐えられる年月であっても――子供にとって耐えられる年月では無い。

「・・・・そうか。そうだよな。」
「叔父さん夫婦は子供が出来ないから子供が欲しかった。ミノル君は親がいないから――理想的な引き
取り手よ。孤児院とか得体のしれない“お父さん”なんていうのよりはよっぽどね。」

 シンが僅かに――本当に少しだけ、顔をしかめた。

「そう、だよな。」
「・・・・何ヘコんでるの?」
「・・・・いや、何でもない。」

 返答には答えず、彼は病室を眺めたまま動かない。
 ミノルが楽しそうに笑い、叔父と叔父の妻だろう人も笑い合っている。
 それは家族の団欒であり――今夜、ヒノが引き裂こうとする団欒だ。

「・・・・酷い話だな。」

 ヒトを喰らうことでヒトになった化け物。
 けれど、化け物がヒトを維持するにはヒトを喰らうしかない。
 そいつがその子の横にいる為には、これからもずっとヒトを喰い続けなければならない。永遠に。
 そいつの幸せを維持する為にはヒトが喰われなくてはならない。
 その幸せはヒトが死ぬことで維持される砂上の楼閣。

「・・・・本当に、残酷だよな。」

 シンは見つめる。
 その団欒を――今夜ヒノが引き裂き、これからも壊し続けるであろう、どこかの誰かの団欒を。
 女医から表情は見えない。
 どれほどの時間を見つめていただろう。
 吸っていた煙草を携帯灰皿の中に押し込んで、火をもみ消していた矢先――彼が突然立ち上がった。

「・・・・俺、行くわ。」
「いきなり、どうしたの・・・・っ。」

 女医が振り返ってシンの表情を見た瞬間、息を呑んだ。
 シンは女医に構わず呟く。

「今日の夜は、絶対に外に出ないでくれ。」
「え、な、何で」
「何も言わずに言う事を聞いてくれ――それで。」

 唇を噛み締めて、彼は言った。

「それで、全部、終わるから。」

 そう言って、シンはその場を去っていく。
 女医はその後、腰を下ろした。白衣が汚れるなと思ったが仕方が無い。あんな顔をいきなり見せ
られて――叫び出さなかった自分は凄い。そう思った。
 朱い瞳が燃えていた。絶対に消えることの無い焔となって猛っていた。
 凄絶な表情だった。幾つもの感情を炉にくべて溶かし切ったような――およそ人間が浮かべて
良い表情ではなかった。
 悪魔のような――いや、悪魔そのものと言っていい表情だった。

「・・・・よくアレと付き合えるわね、あの二人。」

 女医の呟きだけが屋上に木霊する。シンの姿はもうそこには無い。
 終焉は近い。
 物語が終わりを迎える。


 剣と銃。黒いコートの中には弾倉。カートリッジは既に装填出来る限界まで込めている。
 雪に埋もれた駐車場の中を歩きながら、その四隅に魔力を込めたカートリッジを雪の中――あるい
は土の中に埋め込んでいく。そしてヴェロッサが勝手にコートの中に入れていた、黒い直方体をその
中心に埋め込んだ。
 時刻は20時。まだ奴は来ない――準備は既に終わっている。
 シンが今いるのは病院の駐車場。他の扉は全て鍵がかけられており、夜間は駐車場に面したその扉
だけが唯一の出入り口となる。
 もし、ヒノが強引にでもミノルをさらおうと考えているのなら、今、シンが行っていることは全て
無駄になる。
 だが――シンはそうなるとは思わなかった。
 ヒノは、ミノルと、“ひっそり”と暮らしていきたいのだろうから。
 そんなことを考える者が正面から堂々と現れるだろうか?
 答えは否だ。
 ひっそりと、彼は裏口から入り、誰にも気づかれないまま、ミノルをさらい――そして、どこかに
消える。方々を転々とする根なし草のような生活を繰り返し、家族と一緒に世界を巡り続けるつもり
だろう。
 ――ヒトを喰い散らかし続けて。

「・・・・させるかよ。」

 小さく呟き、シンは空を見上げた。
 満月の夜。雪が止んでいる。恐らくそろそろギンガも帰ってくる頃だ。
 覚悟は出来た。決意も出来た。
 その果てにどんな結果になろうとも――知ったことか。
 無責任な話だ。人間にとってもヒノにとっても。
 結局シン・アスカはどっちつかずを選んでここにいる。
 それでも、シンはヒノを死なせたくないのだ。
 理由など決まっている。昔の自分に似ているから。それだけだ。
 どこまでも個人的な理由――だが、今だけはそれで良いと心中で断じる。
 良い訳が無いのだが、それでも今だけは。

 空は晴天。空気は凍てつくように寒い。
 吐く息は白く、頬と耳は凍るように冷えている。
 かつん、と足音がした。

「・・・・やっぱり、待ってたんですか。」
「ああ、待ってた。」

 灯りは駐車場を照らすオレンジ色の街灯だけ。
 そんな薄暗い世界の中で二人は対峙する。
 白いスーツに身を包んだヒノと黒いコートに身を包んだシン。
 街灯を挟み、二人は対峙する。
 ヒノは静かにたたずみ、シンは僅かに前傾し――二人は対照的だった。
 色といい体勢といい口調といい――そして身にまとう雰囲気までも。
 シンが肩に担いでいた鞄を下ろす。中から取り出だしたるは拳銃――全長410mmの威容を誇る大型
自動式拳銃「オルトロス」。
 懐からデバイスを取り出し、展開――大剣へと変形。

 左手に拳銃を、右手に大剣を。
 
 撃鉄を起こし、弾丸を装填。カートリッジを装填し魔力を充填。
 素人目にも分かるほどに、あからさまな戦闘の合図。
 
「邪魔をしないでください。」

 ヒノが呟く。
 その両腕が黄金の毛並みの獣の手へと変化する。長く、太い、大猿のような腕へと。
 瞳を閉じて――開く。
 紅い瞳がそこにあった。擬態ではない、本当のヒノの眼。
 同時に全身のスーツが“波打ち”、腕と同じく黄金の毛並みへと――一拍を置いて、ヒノという
人間は化け物へと変貌する。
 クジラビトという名の化け物へと。

「邪魔するよ。邪魔しなきゃどうするんだ。」

 シンが構える。
 右足を後ろに引き、大剣を担ぐように。
 左足を前に出し、拳銃をヒノに向ける。
 動作に重さは感じられない――魔法によって重量を緩和しているのだろう。
 飛行という魔法が使用できるのならば、超重武器という概念はそもそも成立しない。
 人間を浮かすことが出来る魔法があるのならば――如何なる超重武装であっても軽快に扱えない
という道理は成立しない。

「・・・・殺されたいんですか、貴方は。」
「・・・・お前に言っておくことがある。」
「何ですか。言っておきますが、私に身を引けと言っても――」
「オカザキ君は叔父さんに引き取られるそうだ。あの子もそれを喜んでた。」

 あの光景を思い出す。
 暖かい、ミノルが――そしてヒノが手に入れたくて仕方なかったモノ。
 胸に浮かんだ感情は哀れみだ。
 手に入れるはずだったモノはとうの昔に取りこぼしていて、本人だけがソレに気付かない。
 それは――そんな哀れみだった。

「あの子はこれで幸せになる・・・・どんなに辛くたって、あの子はこれで幸せになれるんだ。」

 呟くことが辛かった。
 もう、どこにもヒノが幸せを掴む隙間は無い、と告げることが辛かった。
 ミノルは叔父に引き取られることを喜び、叔父はミノルを本当に大事にしている。
 ヒノはミノルを幸せにすると言って――でも、ミノルはもう幸せになってしまっていて。
 だからヒノがミノルを幸せにする為には、ミノルの幸せを一度壊す必要があって。
 あの家族の団欒を引き裂く必要があって――そんな誰も喜ばない方法しか残っていない。
 もう、どんな方法を取ったとしてもミノルは傷つき、ヒノも傷つく。
 もう何もかもが遅すぎる。

「お前がいなくても幸せになるんだ。」

 それは幸せと言うには酷く残酷で――だからこそ、真実幸せとも言える。
 万物全てに通じる道理――誰かが幸せを得る為には誰かが不幸でなければいけない。
 何故なら幸せの量は常に定量。
 杯に水が無限に入らないように――幸せと言う杯に身を浸せるのは定められた人数だけ。
 許容量を超えた時には溢れて、杯から弾き出されてしまう。
 弾き出されたソイツは――幸せではなく不幸になるしかない。
 けれど、その幸せは“不幸なソイツがいてこそ”の幸せ。
 誰も犠牲になんてなりたくない。けれど、犠牲にならなきゃいけない誰かがいる。

「・・・・それで?」

 視線は逸らさない。
 視線を逸らしてしまえば、心は届かない。
 後ろめたさに負けるような覚悟が放つ言葉が誰かを説き伏せることなど無いのだ。
 だから――言い放つ。
 決然と、眼を逸らさずに――後ろめたさも後悔も、全てを受け入れて。

「退いてくれ。そして山に帰って、今度こそ人を喰わないように自制しろ。その自制が完璧になった
時、俺がお前をあの子の元へ連れて行く。」
「・・・・馬鹿なことを。」
「馬鹿でも何でもいいさ。お前に、あの子の幸せを壊させる気は無いんだよ。」

 拳銃を構えたまま、踵を浮かし、前傾させる準備をするシン。
 ヒノは動かない。
 紅い瞳を爛々と輝かせたまま、じっとシンを見つめている。

「自制できるとでも思っているんですか、この衝動を。」
「どれだけ、それが辛いかなんて俺は知らない。」

 シンが瞳を閉じる。
 魔力を制御し、ある魔法を構築していく。

「だけど、それでもお前は自制しなきゃいけないんだ。」
「押し付けですね。」
「ああ。これは押し付けさ。」

 現われた表情は凄絶だった。
 その身に秘めた憤怒と悲哀を後悔という名の鍋で煮立たせたような、悪魔の表情。
 目的の為ならば何であろうと貫き通す。その過程に存在する一切合切を駆逐し蹂躙し押し通す。
 そんな悪魔の表情を表に出して――彼が跪き、その手が地面に触れた。

「俺はその為に此処にいる。」

 その言葉を引き金に、シンの手から朱い魔力が地面を伝っていく。

「――これは。」

 緋が、走る。
 朱い魔力――のようにも見えるソレが、まず先ほど埋め込んだ黒い直方体に向けて走る。
 黒い直方体にぶつかると、焔が四つに分かたれ、予め埋め込んでおいたカートリッジに向けて走り
抜け、激突した。

 瞬間、世界が激震した。
 音が消えた。
 色が消えた。
 全ての色は灰褐色に染め上げられ、けれど輪郭だけはそのままの――世界の似姿がそこに現出する。

「結界って奴さ。中からは出られないっていうだけのお粗末なものだけど、な。」

 結界――外と中を区分けするモノ。
 端的に言えば、それだけのモノ。
 ヴェロッサが渡したモノはその補助装置。カートリッジはその要石。
 四隅に配置したカートリッジを軸に四面体の空間を形成し、内部から外部への脱出を禁ずるだけで、
その逆は可能なモノ。
 結界魔法に習熟していないシンが道具を頼りに発動することが出来る唯一の儀式魔法である。

「これで俺を殺さない限り――お前は外に出られない。」
「・・・・本気で殺しますよ。」
「だったら、さっさと殺してみせろ。」

 爆発にも似た音が響いた。
 空気を切り裂く音が響いた。
 交錯――刹那の間に始まり、刹那の間にそれは終わる。
 轟音と共にシンの放った弾丸が大気を引き裂き、ヒノに迫る――紅色に染まった髪の毛が弾丸を
受け止めていた。
 見れば、それが本当の姿なのか金色の毛が紅く染まっていた。紅蓮の如き紅色へと。

「・・・・そうまでして私の邪魔をするんですね。」

 底冷えするようなヒノの声音。
 それは自身を殺害しようとするシンへの憎悪か、それとも本能的な生存欲求がもたらす死への嫌悪か。
 その声を聞いてもシンの心は動かない。
 どちらであっても構わないし――その両方であろうとも大した違いは無い。
 ヒノを倒し、獣に戻し、その上で山に返す。
 ヒノにしてみれば理不尽極まりない。
 人間にしてみれば無責任極まりない。
 だが――だから、どうした。
 誰に何を言われたって構わない。“決めた”のだ。だから貫く。
 猪突猛進。周りを見ない視野狭窄の方法論。
 大剣の柄に設置された引き金に指をかけ――引いた。
 カートリッジが連続で排出される。その数、実に十発――常識外れの連続リロード。
 シンの体内に膨大な魔力が膨れ上がる――その魔力によって紡がれる世界中で彼だけが使用出来る
唯一無二の魔法。

「点火(イグニション)。」

 撃発音声(トリガーボイス)――魔力の方向性を定める言葉。

「高速活動魔法(エクストリームブラスト)・二倍速(ギアセカンド)」

 追加詠唱(プラグイン)――魔力の方向性を強める言葉。

 どくん、とシンの胸の鼓動が巨大化し加速する。まるで削岩機のような轟音へと。
 胸の中心から手足の末端や頭部に向かってジグザグに伸びていく朱い回路図。
 加速した鼓動。彼の身体の血圧が跳ね上がった。鼓動と言う血液を動かす力が一気に増加したせいだ。
 全身が弾け飛ぶような痛みを感じる。胸の中心に存在する心臓が爆弾に変わり果てたような錯覚。
 全身から立ち昇る朱い蒸気。魔力を全身の表面に対流させ、全身そのものを加速させる朱い焔。
 感覚が加速する。心臓の鼓動が強く激しくなるごとに感覚が一気に加速していく。

「・・・・馬鹿ですよ、あなた。」
「お前もな。」

 身体を前面に向けて倒れ込ませる。
 額を地面に擦り付けるような態勢になり、倒れ込むその勢いを逃さず前方に向かって跳躍。
 咆哮はなく、静かに――迫る。大剣を振り被る速度はそれまでの二倍速。振りかぶったソレを叩き
つける。
 ヒノの全身が流動化し、“沈み込む”。跳躍――斬撃が回避された/捕捉を継続。
 機械化する思考。
 覚悟によって束ねられ、決意によって押し出され、今シンは自身を一発の弾丸――或いは刃として
稼働する。
 視認するには速過ぎる上に、“敵”の身体は変幻自在融通無碍。
 流動化したヒノが蛇の如く地面を這い回り、背後へと移動――一瞬視認が遅れた。

「――」

 考えるよりも尚早く。
 思うよりも尚早く。 
 状況に対する反射行動/膨大な戦闘経験によって導き出された解答――直感の誘導に従い、大剣を
振り抜く。
 視認すら必要無く命中/背後からの刺殺を回避。ヒノの右手が剣となり、シンの胸を背後から穿つ
ところだった――その一撃で攻撃は止まらない。
 攻防は続く。
 右手の刺突が顔面に迫る左手の斬撃が首を撥ねようと迫る左足が右足がシンの全身を細切れにしよ
うと蠢き迫る迫る迫る――心を鋭く、動作を鋭く、感覚を鋭く。
 ヒノの放つ一撃は全てがシンにとって死を意味する。
 狙いは全て人体急所――即ち太股、二の腕、首筋、額、こめかみ、脇腹、背面――銃剣と大剣に
よって、その一撃一撃を丁寧に捌く。
 致命傷となる一撃だけを直感を以て選択し迎撃しているからこその芸当。
 直感が狂えば、その時点で死んでしまうと言う綱渡り――意識が研ぎ澄まされていくのを感じ取る。
 生と死の臨界点――その細く頼りない綱渡りを続けることでしか渡り合えない戦闘構築。

「ああああああ!!」

 ヒノの咆哮が耳に届く――内実を知るが故に悲壮に聴こえる。
 心に亀裂/迷い――それでも捌くことを止めない。彼の前に立ち続けることを止める気は無い。

(させるかよ)

 捌く。上下左右、定められた型も方向も存在せず放たれる連撃。二倍速と言う世界に身を置いて尚、
視認すら難しい致命の連鎖連続大瀑布。声を出す暇も無く、余計なことを考える暇など無い。
 それでも――シンは咆哮する。心の中で、誰にも届かないとしても、自分にだけは届くのだから。

(そんなの、させてたまるかよ。)

 咆哮は決意の確認。
 捌きは終わらない。両者の位置は変わらない。
 戦闘が始まって、僅かに十数秒が経過――足元に動きは無く、その攻防の質に変化は無い。
 シンが踏み込んだ。肩が切り裂かれた、腹部と太股が浅く裂傷、額から血が流れ出す。距離の変化に
よって、シンの捌きが間に合わなくなっていく。
 それでも踏み込む。多少の損傷は止むを得ないと判断し、接近していく――足を止めて打ち合うこと
はシンにとって不利過ぎるがゆえに。
 威力、速度共にヒノが上。シンが勝るモノなど経験程度――短期決戦で終わらせることこそがシンの
狙い、というよりも絶対条件なのだ。
 撃ち合う速度が更に加速する。直感によるものか、シンの全身が切り刻まれながらも致命傷を紙一重
で回避していく。
 止まらないシンに業を煮やしたヒノが僅かに右手を“大きく”振り被った――大剣を振り抜き、そこ
にぶつける/右手が振り下ろされ、速度に乗り切る前に攻撃を潰した。
 そうして、開いたヒノの胸元の空白(スペース)――その空白(スペース)を潰すように一歩踏み込む。
 ヒノが懐に入り込まれた焦りからか、左手を振り被り叩きつけようとする――その一瞬前に左手の
拳銃を突き出した。
 銃口がその紅い毛並みに接触――距離はどんな馬鹿であろうと外さない必中の零。
 ヒノの表情が僅かに歪む――これから来るであろう痛みを堪える為に。
 引き金を引いた瞬間、振動が左手から全身に伝播する。馬鹿げた轟音が鼓膜を潰そうと暴虐し、火花が
辺りを照らした。
 銃撃が命中したヒノの身体が吹き飛び――はしない。仰け反っただけで弾丸はヒノを貫通していない。
右手を振り下ろし、その体躯に向けて叩き付ける。

「らあぁぁぁぁああ!!」

 荒々しい咆哮と共に繰り出された斬撃はヒノを切り裂くことなく地面に叩きつける。
 ヒノの身体が地面に当たった瞬間ゴムマリのように跳ねた――空中で態勢と体型を整え、後方へ
撤退――開く距離。互いに一足では届かない距離。

「邪魔を……するな!!」

 ヒノが止まることはない。今程度の一撃で止まるのならば、戦いなど起きはしない。
 全身から立ち上る蒸気――全身を侵し尽くした人外の力による治癒力/ヒトに在らざる再生力――
シン・アスカは人で在って人に在らず。
 故に、その身は化け物退治に適している。
 化け物と人の狭間に位置するが故に。

 ヒノが迫る。今度は両手を鞭のように形状変化し、こちらに向けて投擲――それを見据え、
決然と/冷徹に/心を細く――呟く。

「何度だって繰り返してやるよ。」

 銃剣と大剣を構え、捌き、踏み込み、近づく――朱い瞳に燃え盛る激情を湛えて。

「お前が諦めるまで――何度でもな。」

 二つの意思が激突する。


「・・・・それじゃ、ミノル君のことお願いします。」

 そう呟き、女医はそこを離れた。
 手術は成功した。しばらく包帯は取れないだろうが、彼の視力はこれで回復する。

(・・・・あいつにも言っとかないとねえ。)

 懐をまさぐり、シガレットケースを取りだす。
 手術後には必ず吸いたくなる――重圧から解放されたと言うことを煙草によって確認したいのかも
しれない。

「喫煙室とかその内作ってくれないかなあ。」

 そう、呟いて――彼女は“外”に向かう。
 出るなと言ったシンの言葉を忘れて。


「うおおおおお!!」
「はあああああ!!」

 迸る咆哮と咆哮。ぶつかり合う意思と意思。
 斬撃と斬撃の応酬。鳥のざわめきのような甲高い音を鳴り響かせ、灰褐色の世界に火花が散っていく。
 刺突を銃撃で迎撃し、銃撃を朱い毛並みが握り潰す。
 変幻自在融通無碍――現在のヒノはそんな言葉では測れないほどに自由自在にその姿を変化させて
いた。両手両足からの攻撃だけではシンの捌きを超えることはできないとヒノは判断し、攻撃回数を
更に増加させる為に朱く染まった髪の毛を攻撃に使用――捩り集めて螺旋として刺突。それをいなし、
捌き、接近するシン・アスカ。

「邪魔を、するなぁっ!!」

 咆哮――或いは慟哭。何をやってもヒノの攻撃はシンに届かない。
 ここに至るまでに既に数分――永遠のように長い数分だ。
 ヒノにしてみれば、これだけ自分自身と渡り合う人間との戦いは初めての経験だった。
 知性を得ていなければ既にヒノはやられていただろう。
 圧倒的な速度差を直感で埋めることが出来るほどに――シン・アスカと言う人間は戦い慣れている。
化け物であるヒノをして、驚嘆せしめるほどに。
 仮に短期的な予知をする魔法――演算能力に特化した特殊な魔導師ならばもしかしたら実現できる
かもしれない――があるとする。
 そういった“手段”を用いれば、理屈の上では圧倒的な速度差を埋めることは可能だ。
 多様な不確定要素を織り込んだ上で、高速戦闘中に確定予知と言うモノが実現可能ならば、だが。
 現実にそんな状況では演算能力などどれほどあっても足りはしない。真っ当な魔導師ならば、
自身の動きを早くすると言った手法を選ぶ。そちらの方が実現は容易いし、効果の確認も行いやすい。
 今、シンが行っていることは、そのどちらでもない。もっと単純にして明快な技術だ。
 ただ、相手が攻撃する一瞬先を感じ取り、捌く。それだけ。
 先を読んでいる訳でも予想でもない、単なる閃きによる戦闘構築。
 膨大な――それこそ濃密と言う言葉でしか表わせないほどの戦闘経験の果てにのみ掴み取れる馬鹿
げた戦闘理論。
 その直感が外れた瞬間、命を落とす。当て続ける限りは生きていられるハイリスクハイリターンの
極み。
 ヒノの右手とシンの大剣がぶつかりあう――鍔迫り合いの格好。片手で振るう大剣では分が悪いと
判断し、左手の銃剣も使い交差するようにヒノの斬撃を堪える。

「・・・・いいから、山に、帰れ・・・・!!」
「ふざ、けるなぁっ!!」
 
 咆哮――ヒノもシンと同じく両手を交差させるように刃を振り抜こうとする。

「私は、あの子と幸せになりたいだけだ・・・・貴方に邪魔をされる筋合いは無い!!」

 裂帛の気合と共に彼が両手を無理矢理振り抜いた。堪え切れない――気がついた時には自分から見て
右方向に力をずらし、左方向――ヒノの背面に移動。
 左手の拳銃を構え、引き金を引く。態勢を崩したままのヒノの無防備な背中を銃撃する。
 命中の瞬間、ヒノの身体が更に加速。一瞬で視界から消えた。弾丸は地面を穿つのみでヒノにはまるで
到達していない。
 直感が告げる位置――背後からこちらの首を撥ねようとしている。
 そのまま前方に向かって転がるように跳び込み、背後からの横薙ぎを回避――僅かに間に合わずに
後頭部の皮が一枚切り裂かれた。転がりながら後方に目を向ける。既にヒノはそこにいない/ぞくり
とした怖気。死の感触が頬を撫でる。反応が遅れる――直感すら間に合わないほどにヒノが早すぎる。
 全身を覆う焔を周囲に向けて一気に巨大化/拡散/散布――シンの行動速度が低下。二倍速の意識と
身体の間に速度差が生じた。
 焔によって広げられた知覚範囲――シンを中心とした球形空間――に後方左側より迫る細い何か。
軌跡は側頭部に向けて。

「うおおおおお!!」

 咆哮しながら、その場から離脱し、旋回、背後に振り返り――右拳を振り被ったヒノがいた。

「はああああ!!」

 絶叫の咆哮。全身全霊をこめた一撃――間に合わない/受け切れない/捌くにはこちらの動きが遅すぎる。
 全身を覆う激痛――それら全てに見切りをつけて、もう一段上へと自身を追い詰める。
 覚悟と決意は一瞬で終了し、逡巡は刹那すらかからずに消失。

「三倍速(ギアサード)!!」

 更に追加詠唱(プラグイン)。感覚が加速し、不整脈が酷くなる。心臓の鼓動が不正確に、吐き気を伴い、
頭痛も酷い。うめき声を上げそうになる肉体を必死の思いで制御し、ただ生き伸びることに専心する。
 更に加速した三倍速の世界の中にあってようやく――シンはヒノの動きを捉えた。

「何が幸せになるだ・・・・!!」

 ヒノの首筋を狙った横薙ぎを受け止め弾き、踏み込み、振りかぶる――振り下ろす。

「それで本当にあの子が幸せになると思ってるのか!!」

 渾身の力で大剣を叩き付け、

「黙れぇぇぇぇっ!!」

 痛恨の膂力で弾き返す――僅かに距離が開く。そのまま二人の足が止まる。
 両名共に両脚を広げ、腰を落とし、両手を振り被る――放たれる寸前の弓の如く、引き絞られる全身。
 伸長は一瞬。解放――互いの腕が視認もかくやと言う速度へと先鋭化していく。
 互いに後退するつもりは無い。
 意識が途切れそうなほどの頭痛と吐き気がシンを襲う。それを覚悟と決意で踏み潰し、決然と突き進む。
 ヒノの四肢の末端が更に先鋭化。髪の毛が捩り集まり円錐を形成――一心不乱に目前の敵をぶち殺す為に踏み出す。
 共に息を吸い込む――生体機能として呼吸を求めるシンと生体擬態として呼吸を求めるヒノ。
 相似していながら、対極の極み。

「貴方に何が分かる!!」

 互いに足を止めての打ち合い。
 動きは止まらない。
 朱い瞳と真紅の瞳が輝く――残像を残して、朱と紅の軌跡が夜闇を舞う。
 白刃の残光が煌めき、残響を残した。
 紅刃が残像を残し、紅い軌跡を残した。
 打ち合う――打ち合う。
 剣で刃を捌き、弾き、蹴りが打ち込まれた――タイミングは同時。互いに互いの腹部を撃ち抜こうとして
外れた/吹き飛ばされる両者――その様は風船が爆裂するよう――結界の壁に激突、墜落、地べたを
這う――間髪いれずに互いに前進突進炸裂する剣と刃の斬撃の応酬――再び剣戟が再開し、剣嵐が
そこに現出する。

「あんなに幸せそうな貴方に・・・・私の何が分かると言うんだ!!」

 咆哮――慟哭。
 どこまでも切なる響き――それ故に耳に入るのを止められない。

「山に帰れだと!? 自制しろだと!?」

 神速の斬撃の応酬。その隙間を縫うようにして、ヒノの指先がシンの首元に迫る。咄嗟に首を反らし、
引きちぎろうとするソレを回避する。
 シンの態勢が崩れた。ほんの一瞬――死地における一瞬は永遠と同義だ。
 ヒノの右拳が突き出される――シンが反応した。態勢を整える為に一瞬の間が必要となり、その一瞬で
ヒノの拳はシンの胸に到達する/間に合わない。

「何も知らない貴方が、知ったようなことを言うな―――!!!」

 拳が胸を吹き飛ばす/咄嗟にシンが自身の左腕をその拳との間に滑り込ませた――視界が断絶し、復活。
 その中で見えたモノは灰褐色の世界で拳を突き出したヒノだけ――他を見る余裕は無い。そもそも視界
そのものが“半減”した。左腕の痛みを感じる暇も無い――無事な右手で大剣の引き金を引きカートリッジ
をロードし、魔力を補充。回数は――20を超えた時点で数えるのを止めた。
 膨れ上がり続ける大嵐(タイラン)とも呼べる魔力量。それが生み出す圧迫感と息苦しさに身を任せ――終わりが
近い。そんな確信をシンは胸に抱いた。


「はあああああ!!」

 ヒノが絶叫する――その緋色に染まった髪の毛が伸びて、付近全てを蹂躙していく。髪が捩り集まり
生まれた円錐が雨のように降り注ぎ、世界全てを壊していく。
 シンを狙ってのことではない。駄々をこねる子供のように、行き場の無い感情をぶつけるだけの行為だった。

「あああああああ!!」

 絶叫は止まらない。蹂躙は終わらない。闇雲に全てを破壊し、蹂躙し、ただただ感情をぶつけていく、
その様は化け物と言うよりも――幼い子供のように頼りない。
 
「私は幸せになりたいだけだっ!!」

 けれど、だからこそ、その思いは誤魔化しなど毛ほども無い綺麗な思い。
 ただ幸せにしたい。幸せになりたい。
 純化した一途な想いがヒノと言う化け物の根幹であるが故に――化け物でありながら、その心魂は
咆え猛る。
 何故だ、何故だ、何故だ、と。
 幸せになりたい。幸せでありたい。幸せが欲しい。
 知性によって得られたその方向性は、あまりにも人間らしく――人を喰らうことでしか維持できない
仮初の知性だと言うのに、それは人間そのものでしかなかった。

「ミノルと一緒に静かにどこかで暮らしたいだけだっ!!」

 その様はあまりにも哀れだ。
 求めるが故に離れていく願い(ユメ)。
 それを求めるが故に手に入らないと理解しても尚――願い(ユメ)を諦めることが出来ない。
 正に無様。故に哀れ。
 同情を受けるに相応しい。憐憫を求めるに相応しい、絶対的弱者。

「邪魔をするな邪魔をするな邪魔をするな邪魔をするなああああああああ!!!」

 蹂躙は止まらない。
 ヒノの胸に渦巻く憤怒が悲哀が無常が止めさせない。
 そのまま蹂躙し続ければ、全ては終わるだろう。
 吹き飛ばされたシンは未だ動かない。
 恐らくは死んだ。そして――この牢獄は消失する。その時はその体躯を喰らい、僅かな暇を貰い受け、
ミノルと共にこの場を去ろう。
 彼はきっと着いてきてくれる。きっと楽しく生きていける。彼の眼が直れば、彼は私を見て何と言う
だろう。きっと彼は私を父として慕ってくれる。追手が来たら喰えば良い。彼には見せられないが、私は
喰わなければ人であれないのだから仕方ない。父である為に人を喰うのだ、ミノルもきっと分かってくれ――

「・・・・邪魔するに決まってんだろうが。」

 常とは違う口調。それが誰の声なのかを認識するまでにヒノは一瞬を要した。

「幸せになりたいなら、何しても良いのか。その為なら何やったって許されるっていうのか。」

 自らの上に降り積もった瓦礫をどかし、シン・アスカが立ちあがっていた。
 その姿は満身創痍。
 全身の至るところから流れる血。スラックスの足元から、口元から、額から、左目から、腕から――夥しい
血液が流れ落ち、足元に血だまりを作って行く。
 震える足は生まれたての小鹿のように頼りなく、いつ倒れてもおかしくない。
 それでも、口調だけはしっかりと、瞳だけはしっかりと。
 ヒノを見据えて、決然と問いかける。
 
「それで、あの子が幸せに生きていけるなんて――あの子が、それで幸せになれるって、お前、本当に思ってるのか。」

 その問いは、至極当然のことだった。
 ミノルと言う子供が、ヒノと共に幸せに暮らすことを、幸せに思えるのか。
 世界とは観測することで決定する。
 それは何も世界だけの話ではない。
 外見が千差万別であるように、内面もまた千差万別。
 誰かの幸せは、誰かの不幸――だが別の誰かはそれを見て、幸せを不幸だと、不幸を幸せだと思うかもしれない。
 ヒノが幸せだと思っていても――ミノルが幸せと思うのか。
 本当にミノルの幸せを願うのなら、ヒノは身を引かなければいかないのだから。

「思うはずが無いよな。“お父さん”は化け物で――もう本当のお父さんもお母さんもお前が喰っちまったんだ。」
「・・・・」

 ヒノは何も言わない――言えない。知性があるから、それを理解していないはずがない。
 シンの全身から立ち上る蒸気。
 満身創痍の肉体を急速に癒していく。それでも痛みは消えない。負傷による痛みも、再生に伴う痛みも。
 治ったとしても傷跡は残る。完全に残らない傷など存在しない。
 痛みは――消えないのだ。
 同じように、奪われた人の痛みも、喰われた人の痛みも、決して消えることはない。
 その家族が、残された人がきっとずっと忘れない。
 自分が――シン・アスカがそうだったように、きっと忘れることは無い。

「山に帰れ。帰って、自制しろ。お前が――お前が本当にあの子の幸せを願うのならそうするべきだ。お前
だって分かってるはずだ。」

 風が吹く。肌寒さを感じた――コートは既にそこかしこが破れて用を為さなくなっている。

「黙れ。」

 答えは変わらない。

「黙れ・・・・黙れ・・・・!!」

 答えは――変わらない。

「黙れぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 絶叫――悲壮さを感じさせるその咆哮と共にヒノの身体が沈み、シンに向けて突進、加速。

「・・・・馬鹿野郎。」

 呟きと共にシンが大剣と銃剣を構える。
 ヒノの両手が伸びる――同時二撃。左右から迫るソレを回避するには上下どちらかしかない。踏み込みと
共に身体を沈みこませ、ボクシングで言うダッキングの要領で同時二撃を回避。
 空を切る両腕の内側に身を置き、更にシンも突進。彼我の距離が迫る。近くなる。ゼロへと近づいて行く。

「馬鹿野郎・・・・!!」

 接敵/接敵。
 共に超高速――視認不可領域に身を置いた状態で。
 感情に身を任せヒノが全身全霊で右手を振り抜き、感情と切り離した動作で両の手を振り抜くシン。
 交錯――二人の身体が接触し、互いに互いの得物を振り抜く/金属音が鳴り合わない。代わりに聞こえた
のは、肉を断ち切る無粋な音響。

「あ、ああ、ああああ!!?」

 ヒノの口から呻きが漏れた。それは突然制御出来なくなった自身の身体に対する驚愕によるもの――宙を舞う
ヒノの右腕が金色の粒子となって霧散する。同時に右上腕部、断ち切られた部分にヒビが入った。
 右腕に全体重を乗せていたがゆえに急激な体積と重量の変化は容易にバランスを崩させる。
 ましてや、視認も難しいほどの超高速状態であれば、一度崩壊したバランスを整えるなど不可能だ――速過ぎる
がゆえに整える前にどこかに激突するか、転倒する。
 ヒノもその類に漏れることなく、為す術無く結界によって作られた壁面に向けて、激突した。速度が速い分だけ
その衝撃も凄まじい。気がつけばヒノは空中をくるくると回転しながら、地面に叩きつけられていた。

「がはっ・・・・!?」

 訳の分からぬ状況変化。
 それまでの彼の人生において一度たりとも在り得なかった肉体の制御不可と言う状況。
 それが、ヒノの思考を錯綜し、混乱を与えた――時間にして一秒ほど。
 シンの持つ巨大自動式拳銃(オルトロス)の弾倉が地面に落ちる。
 ここに至るまでに既に弾丸を使い切っている/弾倉の交換――コートのポケットから新たな弾倉を取り出し、
銃把に差し込む/瞬く間に終了するその作業すら、鈍く感じられて、焦燥が理性を焼き尽くそうとする――刹那、
作業が終わる。要した時間はコンマ5秒ほど。

 朱い瞳が混乱するヒノを捉える――見えたモノは倒れ込もうとするその背中。

「は、あ・・・・ぎっ!?」

 ヒノの視界が回転する。世界が周り、地面を見ていた彼の視界に空が見えた――同時に、爛々と輝く朱い二つの眼も。

「――終わりだ。」

 銃剣を首筋に突き付け――シン・アスカが呟いた。
 右足でヒノの左手を、地面に突き刺した大剣で両脚を抑え込み、銃剣を首に突き付けた態勢。
 攻防は終了する。
 銃剣の引き金に指は掛っている。ヒノが何かをしようとするよりも、シンが彼の首に弾丸を撃ち込む方が速い。

「動けば撃つ――諦めて、山に帰れ。」

 既にヒノの瞳に恐慌は無い。静謐な輝きがそこに宿っている――静かにシンを見つめていた。
 その静謐は、銃弾如きに殺せないと言う自身の肉体への自信によるものか、それとも諦観によるものか。

「・・・・そんなモノで私を殺せると思っているのですか。」
「殺せるさ。これはお前らを殺す為の弾丸なんだから。」

 巨大自動式拳銃(オルトロス)。今、そこに収められている弾丸は純銀製――魔力と親和性の高い材料で作られている。
 魔法によって作られ、魔法によって存在しているクジラビトと言う存在にとって。それは劇薬に等しい魔弾。
 体内に入り込めば、文字通り、その肉を喰い破る。親和性が高い――つまり、魔力と結びつきやすいと言う
特性を応用した魔法殺しの魔弾。
 その事実を知らないだろうヒノは、ただ嘆息を吐く。その様は疲れ切った老人のようでもあり、遊び疲れた
子供のようにも見えた。

「私は・・・・幸せになりたいだけなのに、人間はそんなことも許してくれないんですね。」
「幸せって言うのはな、一人で作るもんじゃないんだよ。」

 呟きながらギンガとフェイトのことを思い出す。
 自分にとっての幸せの象徴を。
 多分、絶対に失いたくないモノ。失ってしまえば何もかもが壊れてしまうモノ。
 何もかもを捨ててでも欲しくて奪い去ったモノを思い出す。

「幸せにしたい誰かと幸せになりたい自分と――それを認める周りがいて、成り立つんだ。」

 続いて思い浮かぶ、八神はやてとドゥーエ、クロノ・ハラオウン、ヴェロッサ・アコース――自分の幸せを
望んで手を貸してくれた誰か達。
 そして高町なのは、高町ヴィヴィオ、リンディ・ハラオウン、ゲンヤ・ナカジマ――自分を良く思わないだ
ろうに、それでも認めてくれた誰か達。
 本当に――自分と相手だけで幸せになれるのなら、どんなに人生は楽なのだろうかと何度思ったことか。
 けれど、そんな閉じた世界には、幸せなんて存在していない。
 今なら分かる。分かるから、この幸せがどれだけ砂上の楼閣で、大切なモノで、全身全霊を懸けてでも守
る価値があるのだと思える。

「自分と相手だけじゃ、幸せになんてなれないんだ。お前は、そこを間違えてたんだよ。」

 幸せは――自分だけでも、相手だけでも手に入りはしない。
 幸せへの痛み。それは“認めさせる”ことでこそ生まれるモノなのだから。
 だから――

「・・・・分かってましたよ、そんなこと。」

 ヒノが静かに呟く。
 自嘲するように――諦観するように。
 右上腕部に入ったヒビは消えることなく、残っている――少しだけそれが大きくなっていく。

「ミノルをさらって、どこかに行って――だからってどうにもならないってことくらい。」

 静かに呟き続ける。
 凍える空気が身を凍らせていく。

「けど、あの乾きに抗う事なんて出来なかった。気がつけば人を喰らっている気味の悪さが分かりますか?
 いつミノルを喰ってしまわないかと不安になる気持ちがわかりますか?」

 分かるはずが無い。
 クジラビトではないシンにそんな気持ちが分かるはずもない。
 ギンガやフェイトを喰ってしまうかもしれない――殺してしまうかもしれないとなれば、確かに怯えて狂って
しまうかもしれない。
 けれどそれは実感を伴わない、ただの空想。曖昧な気持ちの発露。
 だからこそ――シンは認める訳にはいかない。
 不安だから喰っていい。そんな道理は通らない。人間を幸せにするのなら、道理を通さなくてはならない
のだから。

「それでも、お前は我慢しなきゃいけないんだ。」

 唾を飲み込み、ヒノを見つめる。
 人の面影はそこには無い。既にその顔は化け物――本当の顔を表している。
 そんな化け物にこんなことを言うのなんて滑稽な話だ。
 けれど、それでも、滑稽だろうと愚か者と言われようと、構うことは無い。
 言い放つ。愚行とも言える、その行為を。

「――化け物は、我慢に我慢重ねて、人間にでもならなきゃ幸せになんてなれないんだよ。」

 それは、馬鹿げた、本当に愚かな言葉だった。
 人間が人間以外に成り得ないように、化け物は化け物以外に成り得ない。
 自分自身の属する根幹を捻じ曲げて――化け物が人間の幸せを望むのならば、人間になるしかないのだと。
 ヒノが目を丸くしていた
 馬鹿げた言葉。
 愚かな言葉。
 冷静に考えれば誰でも嗤う言葉。

「・・・・は、はは、私に人間になれって言ってるんですか。」
「本当に人間にはなれなくても、真似事くらいは出来る。それが出来たら――人間なりの方法であの子に
会えば良い。」

 朱い瞳が爛々と輝き、ヒノを見つめる。
 輝きに嘘は無い。
 本気で、この男はヒノに人間となれと――人間の真似事をする化け物になれと言っているのだ。

「・・・・本気で、言ってるんですか。」
「冗談でこんなこと言えると思うか?」

 シンの顔色は変わる事は無い。
 既に心中にて決意や覚悟は済んでいるのか。
 少なくとも、今言い放った言葉に対して、迷いは無い――ヒノは、そう感じた。
 この男は本気で、本気で自分とミノルを幸せにする為に、こんな馬鹿げたことを言っているのだ。
 あくまでも、シン・アスカは、ヒノと言う化け物とミノルと言う人間が、真っ直ぐに幸せと向き合って
生きていけるように――そんな自分勝手な幸せを押し付ける為だけに此処にいるのだ。

「私が人間の真似事なんて出来ると思っているんですか。」
「さあな。けど、これ以外に方法が思いつかなかったんだよ。」
「何の、方法ですか。」
「お前らが、幸せになる方法だよ。」

 言葉を交わす――シン自身、自分が何をやっているのかは理解している。
 人に仇なす化け物を見逃し、あまつさえ人間として生きて幸せになって欲しいなど、ヴェロッサへの
――人間への裏切り以外の何物でもない。
 駆除するのが正解だ。殺すことが正道だ。これはヒノに食われた者に対する明確な裏切り行為だ。
 それでも割り切ることが出来なかった。自分に似ているヒノを殺すことが嫌だった。
 割り切れるはずも無かった――あのミノルと叔父夫婦との団欒を見るまでは。
 哀れだった。ミノルはヒノを必要としていないと言う現実が――ヒノ自身がそれに気づいていないと
言う無知が。
 あのまま、何もしなければ、ヒノはミノルをさらう。そして、ミノルの叔父夫婦を殺すことになる。
 そうなれば、全部お終いだ。ミノルはヒノを化け物だと恐れるだろうし、ヒノは――もしかしたら
ミノルを喰い殺す。
 それは最悪の結末だ。
 少なくとも、ヒノやミノルにとっても――そして、それを見つめるシンにとっても。

「・・・・お前は、人間として生きるんだ。だから――もう人間を喰っちゃいけないんだ。」

 だから、世迷言、妄言、愚行――そんな言葉でしか装飾出来ない裏切りを、押し付ける。
 他の誰の為でも無い。シン・アスカと言う赤の他人の我が儘の為に。

「・・・・は、はは、貴方、馬鹿ですね。」

 呆れたような声音でヒノが言葉を放つ――あろうことか、この男は化け物に幸せになれと言ってきた。

「こんな化け物をそんなにまでして幸せになる為に、とか貴方、本当に、馬鹿だ。」

 嬉しいと言う気持ちがある。
 ヒノが抱くその気持ちは正当なモノだ。
 誰だって――味方が出来ると言うのは嬉しいモノだから。
 涙は出ない。化け物の眼に涙を流す機能は無い。けれど、もし人間に擬態していたなら、きっと泣いて
いただろう。
 ヒノにとって、シンの言葉は嬉しくて嬉しくて嬉しくて――それ以外の“何もかも”を忘れてしまう
くらいに嬉しかった。
 どうしてこんなにも胸が苦しいのか、とか、どうして切られた腕にヒビが入ったのか、とかそういった
何もかもを忘れるくらいには。

「・・・・だから、帰れ。帰って自制するんだ。そうしたら、きっといつかは――。」

 そう、シンが呟いた時――ぴしり、とヒノの硝子(カオ)がひび割れた。

「あ。」

 それは――誰のつぶやきだったのか。
 ヒノか、それともシンか――あるいは両方か。
 どちらが呟いたのかは分からない。
 変化が起きる――激変とも言える変化が。
 不可逆の変化。誰にも止められない変化が

「あ、あ、ああああ・・・・?」

 そう、この男は馬鹿だ。
 こんな自分みたいな人を喰わずにはいられない化け物に幸せになれなどと言い放ち、その為に自身の
危険すら顧みず、こんな場に身を浸し、“私に喰われるのだから”。

 ――あれ、何かがおかしい。

 何もかもが反転する。何もかもが崩壊する。何もかもが裏返る。
 胸の奥が苦しい――その苦しみが、何によって引き起こされた苦しみなのかを理解した時には既に
何もかもが遅かった。
 乾く――乾く。
 疼く――疼く。
 蠢く――蠢く。

「ヒ、ハ、ア゙ア゙ア゙ア゙アア゙」

 おかしな叫び声。それが自分の口から出たモノだと理解出来ない――理解すること自体が出来なくなる。
 記憶が削れていく。想い出が消されていく。
 真っ白で綺麗な想い出がどす黒い本能に侵されていく。

 くるりくるりと壊れる世界自分が誰が何を言っているのか分からない囁きが聞こえる囁く囁く囁く囁く。
 蠢き出す体躯、世界が歪む、“ヒビ”が大きくなる。
 右腕から伸びたヒビと顔面に入ったヒビが繋がった。

「あ゙、あ゙、ア゙、ア゙ア゙、ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙」

 びくん、とヒノの身体が震えた。
 両脚を抑え込んでいた大剣と左手を抑え込む右足から伝わる振動の伝播――視線を向ければ、その
四肢がそれまでに無いほど膨張し、張り詰めていく。
 ヒノの身体が膨れ上がる。瞳が真紅から金色に染まる。
 毛並みの色彩が深紅から金色へ――全身の筋肉は膨張、更には消失した右腕に金色の毛並みが寄り
集まり、捻れ合い、“腕”を形作っていく。
 表情がひび割れて、壊れて、別の顔へと変態していく。

「アアアアアアアアア―――」

 その眼に存在していた知性が消える――代わりに入り込む捕食者の本能。瞳の色は金と紅――斑模様に
混ざりあう人間と化け物。

「アアアアアアアア!!!!」

 咆哮。切なる叫びでは無い、真実、捕食する為だけに上げる雄叫び。
 毛並みによって形作られた右腕が、シンに向けて振り抜かれた。
 
「っ―――!?」

 咄嗟にその一撃を大剣で防ぐ――拳の大きさはそれまでの十数倍にも達する、岩塊の如き巨大さ。
受け止めた瞬間、全身に衝撃/バキと言う音。どこかの骨が折れた。断絶しそうになる意識を必死に
繋ぎ止める。
 視界がおかしい。真っ直ぐに前を見ていたはずが、いきなり上空を見ていた――気がつけば風に舞う
木の葉のように、空を舞っていた、吹き飛ばされていた。

「あ、く」

 呻きを上げて、空中で態勢を整える。脇腹に激痛。肋骨が何本か折れた。
 意識が霞む。衝撃で脳震盪程度は起きているのかもしれない――眠れ眠れと本能が囁き、理性を以て
無理矢理意識を繋ぎ止め続ける。
 今、意識を失えば、死ぬ――喰われる。その確信がシンを奮い立たせた。
 殺される訳にはいかないのだから。
 着地と同時に転がり、跪きそうになる自分自身を叱咤/唇を噛み千切り、立ち上がる――ヒノがいた。
呆然と立ち尽くすようにして、こちらを見ている。

「ひ、の・・・・」

 見える姿は、化け物。
 それまでよりもさらに化け物と呼ぶに相応しい――丸太のように太い四肢。なのに先端に向かうに従って
馬のように細く、末端の五指は錐(キリ)のように細く鋭く尖り、口は大きく引き裂かれ、口内を埋め尽くさ
んばかりに鮫のように歯が並び走っていた。

「おま、え。」
「あ、アアア、ど、ド、うやら、切れタ、ラシ、いですネ。」

 その“胸部”に顔面が現れた。
 流れていく一筋の涙――その名前は知性。最後に残った知性が“流れていく”。
 それは恐らく何度も何度も繰り返された工程。
 ヴェロッサ・アコースが止めようとして止められなかった化け物。
 ――人喰いがそこに現出する。

「まタ、食ベ名イと。」

 顔が消えた。
 金色の獣の姿が忽然と消えた――その足元が爆発した。
 シンが咄嗟にその場から弾け飛んだと見紛うほどの超高速で、左方に跳躍。ひゅんと風を切る音。次いで
爆発。爆風がアスファルト舗装を粉々に砕いて、飛礫と化して犯し尽くしていった。
 トライシールドを前面に展開し、飛礫を防ぐ。
 爆風が晴れていく、その中に見える人影――否、人と言うには巨大すぎる異様の影。

「・・・・痛。」

 シンが左肩を抑えている――流れる血と昇る蒸気。左肩が紅く染まり、直径5cmほどの半円を描く
ようにして“無くなっていた”。
 頬が歪む。痛みと目の前で起きている変容への憤怒で。
 くちゃくちゃと何かを――肉(シン・アスカ)を咀嚼する音。口から垂れる朱い血は、咀嚼されている朱い肉は、
シンの肩の肉。
 シンがヒノを睨み付け、問いかける。

「・・・・起きろよ。」

 本能に蹴散らされて、事切れてしまった知性(ヒノ)に向けて、叫ぶ。
 ヒノの金色の眼がこちらを睨んだ。
 肌が粟立つ。人の遺伝子に刻みこまれた捕食者への恐怖が心身を委縮させようとする――それを渾身の
意思で捩じ伏せて、一歩前に詰め寄った。

「起きろよ、ヒノ!!」

 シンの叫びに応じるように、ヒノ――化け物がその身を沈ませた。
 瞬間、化け物が弾け飛ぶ。肉体を自由自在に変化させ、水滴の如き形状へ――空気抵抗を極限まで減少し、
超高速を邪魔する全てをすり抜ける流動化によって導き出された、三倍速ですら捉えきれない超加速。

「あああはっはっははははははあああああああああ!!」

 叫びは原始の愉悦――即ち、喰らう悦びに満ちていた。
 化け物がシンに向かって迫り行く。直線の軌道で迫るが故にシンはそれを補足することは出来た。だが、
それだけだ。捕捉出来たから迎撃できる訳ではない。むしろ――視認出来たことが奇跡に近い。
 咄嗟に大剣を右手で握り締め――拳銃はその時点で放棄――振り抜いた。
 化け物は蛇のように肉体を大剣に絡ませ、シンの頭部を噛み千切ろうと顎を開いた。
 視界一面に広がる白い突起物の群れ――それが歯だと気づくよりも早く、身体をブリッジでもするかの
ように限界まで逸らす/崩れる姿勢――ヒノの手がシンの首を掴もうと両脇から迫っているのが見えた。
 絶叫する暇も無い――生き残る為の克己を奮い立たせ、足裏から朱い魔力の間欠泉――高速移動魔法(フィオキーナ)
を発射。視界が回転する。化け物に向けられていたシンの視線が上空に向かい、地面に向かい、僅かに距離が
開いて再度化け物へ――後方に宙返りしながら後退、足元を無理矢理地面に押し付けて、態勢を保持し、更に
後方に跳躍。両者の間に距離が開く。
 化け物が厭らしげに口を開き舌なめずりをして、シンを見据える――醜悪な姿。
 全身の痛みやその力に怯えるよりも先に憤怒で身体が震えた。その別人具合に腹が立って仕方が無かった。

「・・・・起きるんだよ、ヒノ。お前、そんなんじゃないだろ。」

 呼びかける――ヒノが意識を取り戻すと信じて。半ば意味が無いと直感が告げていたとしても。
 この状態で自制することが出来なければ、シンの“押し付け”は意味を為さない。
 本能を知性で抑え込む――あまりにも現実を見ない馬鹿の世迷言としか言いようが無かった。
 ――それでも、だ。

「あの子と、幸せになるんじゃないのかよっ!!」

 無茶で無謀と笑われようと、自分で決めた生き方だ。
 誰かの為に何かをしたくて決めた生き方だ。

「ああああああああ!!!」

 食欲のままに、シンに向けて突進/眼を見開き、動く右手で大剣を構える。
 肉食獣のようにこちらに跳びかかり押し倒そうとする――直感による取捨選択。大剣を力の限りで
横薙ぎし、その頬に叩きつける。
 横っ跳びで吹き飛ぶヒノ――自らそちらに跳んで衝撃を緩和しているのか、シンの手に残った手ごたえは
酷く軽い。
 その金色の眼がこちらを睨む。眼と眼が合った――通じ合う意思などどこにもない。
 くそったれと胸の内で呟き/喰らう意思に支配され――剣戟に/捕食に没頭する。

「まだだろうが、ミノル君に会う前に、何でもうぶっ壊れてんだよ!!」
「ああああああ!!」

 ヂヂヂヂヂヂヂと甲高く濁った金属音が連鎖し瀑布し浸透する。それはどこか虫の羽音のようでもあり、
重機関銃の啼き声のようでもあった。
 衝撃が空気を軋ませ、互いに一歩も下がらない――弾き、捌き、凌ぎ続ける。

「起きろ、よ・・・・起きろよ、ヒノッ!!!」
「ぎ、ぎ、おおおあああぁぁぁあああ!!」

 互いに虚実による幻惑は無い。そこにあるのは意思と欲求の鬩ぎ合い――理性と本能のぶつけ合い。
 シンの身体が徐々に後退する。右手一本で扱う大剣ではあまりにも分が悪い――大剣を逆手に持ち替え、
捌き受けることのみに集中する。

「ぎっぎぎががががががああああああ!!!」

 涎を垂らして喰らおうと口を開いて閉じる。ガチンと言う歯と歯が噛み鳴らされた音が響く。
 醜悪なその姿に感じた憤怒そのままに大剣を叩き付け、僅かに距離を開かせる。それでも化け物は
止まらない。右手一本の無謀な捌きがいつしかヒノに飲み込まれていく。
 それでも――呼びかけを止めない。

「それで良いのかよ・・・・!!」

 片手一本でヒノの噛みつき、殴打、引き裂き、蹴り、髪によって作られた螺旋を弾き、捌き、受け流す。
 身体が痛い。心が痛い。涙が痛い。血を流すことが痛い。
 ――ソイツを見ることが痛い。

「そんな、時間切れで化け物になって・・・・」

 悲しいと言えばこれ以上無いほどに悲しい。
 だって、ソイツには人を喰らった記憶すら無い。
 今だって、ソイツはただ化け物として、シン・アスカを喰い殺そうとしている意識すら無くて、

「これからもずっとそんなの続けて・・・・」

 捕食者の本能がヒノを支配し、知性と言う不純物を締め出して、純粋な己を取り戻したことに歓喜して
いるのか、咆哮を上げ、目前の獲物を襲い続ける。
 その様は暴風雨(ストーム)とでも形容する以外に無いほどに苛烈であり暴虐であり野生そのもの。
 ヒノの動きが更に鋭く速くなっていく。捌き切れない。諦観が鎌首を持ち上げ撤退を囁く。

「まだ、だ・・・・!!」

 自身を叱咤し、暴風雨(ストーム)の前に立ち続けるシン。
 剣戟の音が耳に痛い。振動が負傷した左肩と脇腹に響いて途切れる意識を無理矢理に繋ぎ止める。

 痛い――悔しい――ふざけるな。
 胸の奥で木霊する幾つもの声。
 慟哭の咆哮。
 目の前の光景――目論見の甘さが招いた自業自得。
 その終着点への痛みと悔しさが湧き上がり、諦観が心を縛り付けようと鎖を伸ばし、それでも朱い憤怒が
苛烈に咆哮する。まだ諦めるなと。まだ終わりじゃないと。
 分別の無い、諦めの悪い、滑稽で馬鹿みたいな己自身の我が儘を押し通す。

「起きろよ、起きて、くれよ・・・・!!」

 縋るような、そして願うような響き。
 届かないなら、届くまで繰り返せ。
 一度や二度の失敗が何だ。百や二百の失敗がどうしたと言うのだ。
 諦めるな、前を見ろ、繰り返せ。
 何度だって、何度だって、“コイツの胸に届くまで”。

「があああああああ!!!」
「起きろよ、馬鹿野郎―――!!!」

 何度目かの大剣と右手の正面衝突。空気が軋み、地面に断裂が走り、互いの髪の毛が衝撃波で揺れ動く。

「ぎ、ぎ・・・・!!」
「うお、おおお・・・・!!」

 呻きを上げて、全身全霊で以て、互いに互いを吹き飛ばそうとする。
 迸る魔力と魔力。朱い炎熱と金色の輝きが絡み合い、鬩ぎ合い、空間を侵食する。

「がああああああぁぁぁ!!」
「らああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 共に咆哮。片方は本能の導きで。片方は憤怒の導きで。
 暴発寸前の魔力が帯電し、空中に霧散していく。魔力濃度の上がる密閉空間。
 二人はそれでも退かない。
 化け物は化け物だから退くことを知らないし、馬鹿は馬鹿だから退くことを知らない。
 咆哮を上げて、鬩ぎ合うこと数秒――もしかしたら、数瞬かも知れない。
 その果てに、誰かの声がした。

「・・・・疲れた。」

 どこかで聞いた声がシンの耳に響いた。

「――煙草、煙草、と。」

 女医が、煙草を吸おうと、駐車場にいた。

 ――シンの張った結界は“お粗末な”モノ。中から外に出られない、だけで、外から中に入れない訳
ではない。
 駐車場側からは誰も来ないように立入禁止のバリケードや看板を病院の倉庫から持ち出し設置して
おいた。
 結界の効果を考えた上での作業だった。誰も来ないようにしておくことで、誰にも見つからない、と。
 煙草を吸う人間は病院内では少数派だ。普通、病院の中で煙草を吸うことは許されない。
見つかれば、と言う前提があるが。
 見つからなければ、煙草を吸っても構わない――そんな理由も無いが、喫煙者の思考とは時にそれに
接近することがある。
 そう、“誰も来ない”からこそ、見つかる心配が無いからこそ、女医はそこにいるのだ。
 誰にも咎められずに煙草を吸えるから。
 誰が悪いと言う訳でもない。仮にシンがそういった処置を施していなければ、女医以外の誰かが
やってきただろう。
 女医が悪いと言う訳でもない。まさか、病院の外――それも敷地内で化け物同士が戦っているなど
真っ当な神経を持っているなら、思いつくはずが無い。
 だから、これは必然。当然の如く帰結する摂理――運命のように、化け物モドキが化け物を救える
などおこがましいと言うそれだけ論理。

「く」

 ヒノの口内から涎が溢れ出す。
 紅と金の斑模様の瞳が愉悦に滲み出す。

「くきききききき」

 笑う嗤う哂う――愉悦が滲んで化け物の顔だと言うのに、それが笑っているのだと理解出来てしまう。
 新たに現れた獲物――それは簡単に殺せそうで、目の前のコイツよりもやわらかそうで、旨そうだ。
 その笑顔はそんな風に語っているようで――ヒノがそう思ったかどうかは定かではない。知性の無い、
ヒノにそんな思考をすることが出来たのかどうかなど誰にも分からない。

「に」

 逃げろと言う瞬間――僅かに隙が生まれた。
 身体が危険を察知/殆ど自動的に身体が反応し、防御態勢。

「え――がぁっ!?」

 岩塊のような拳が叩きつけられた、吹き飛ばされた、意識が僅かに断絶――結界の壁面にぶつかる
寸前で、身体を回転させ、着地――途切れそうな意識を無理矢理、稼働させ、前を見た。
 見えたモノは、雄叫びを上げ、女医に向けて跳躍するヒノ。
 殴り飛ばされたことで距離は絶望的なほどに広がった。間に合わない。女医は喰われる。ヒノに
頭から丸かじりにされて、喰われたことすら気付かずに死に至る。
 足を踏み出す――三倍速(ギアサード)から四倍速(ギアフォース)へ。
 更に踏み出す――五倍速(ギアフィフス)へ。
 そして踏み出す――六倍速(ギアシクス)へと至り、稼働限界を突破する。
 身体を覆う朱が燃え上がり、結界が大きく揺らいだ。
 刹那よりもさらに早く。
 思考が、加速する。
 ――間に合わない。ヒノが口を開いた。女医が死ぬ。守れない――守れないどころか見殺しだ。
 どくん、と胸が跳ねた。
 殺される。
 女医がヒノに殺される――喰われて原形を失くして、何もかもが終わる。ヒノも、女医も、自分も、ミノルも。

「やめろ。」

 超高速の世界にて放たれる言葉は金切り声のように空気を震わせる。
 常の七倍の最高速度――六倍速という稼働限界を振り切って。
 シンの魔力が全て体内に収束する。結界を維持する魔力も全て高速活動魔法(エクストリームブラスト)の
為に使用され、中と外を区切る線が立ち消え、空間が通常に復帰しようとする――復帰するまでに
要する時間は僅かに数秒。
 終わるには十分すぎるほどの間隙――女医は今も何も気づかない。
 惨劇が起きていることにすら気付かない。
 食われようとしていることにすら気づこうともしない。

「やめろ・・・・」

 神経が焼き切れそうな錯覚/実感。
 以前のようなデバイスからのサポートが無い状態で使用できるのは三倍速まで。それ以上は身体を
壊すどころか何らかの後遺症を残す可能性が高い――それならば、まだ良い。それならば、まだ人間だ。
怖いのはそれすら無かった場合。シン・アスカは“力”を使えば、使うほどに人間を離れていく。
 いつか人間ではなくなってしまうと言う恐怖(リスク)があった――存在が変容し喪失する恐怖が。
 女医が煙草に火を付けた。
 ヒノがその火ごと喰らおうと口を開く。煌めく白い歯の羅列。
 全てが遅く、たゆたう世界――思考よりも早く、反射よりも早く、自動的に、

「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

 絶叫と共に身体が動いた。
 踏み出し、飛び立ち、加速。加速の勢いに耐えきれずに足元が爆発した――血走った目と鬼気迫る
形相。歓喜や憤怒や悲哀はそこに無い。在るのは悔恨と焦燥の二つだけ。
 ヒノが女医に迫る。口を開けて噛み砕こうとしている――女医はまだ気づいていない。その背後から
忍び寄る化け物に気付かずに日常を謳歌している。
 ヒノの口が限界まで開き、閉じる――止められない。止められない。
 ヒノの動きは止まらない。シンの呼びかけは届かない。運命は覆らない。化け物は化け物。人間は
人間。誰しもその運命を変えられない。
 それでも、と願うそんな一抹の未練すら全て消し去って、彼を信じ続ける自分自身すら裏切って、
逡巡も焦燥も限界も恐怖も振り切って――逆手で握り締めた“裏切りの大剣(アロンダイト)”を振り抜いた。

 一閃――ヒノの上半身と下半身が断裂する。分断された下半身が光の粒子となって舞い散った。続いて
中空に浮かんだヒノの上半身を地面に縫い止めるように天から墜落する流星の如き勢いで大剣がヒノの
心臓を貫いた。
 刹那の時間すら必要としない奇襲――シン・アスカはヒノを殺した。絶命までは間があるだろうが、
それとて長時間という訳でもない。
 結界が崩壊する――区切られた世界が解放され、色が戻り、復帰する。

 呆然とするシン。何もかもが愚鈍だった。何もかもが止まっていた。加速した七倍速の世界において、
シン・アスカの動きは誰にも捉えられない。逆に言えば、シン・アスカの眼に捉えられないモノなど存在
しない。
 故に――シンの眼はヒノの口が女医に触れる少し手前で“止まっていた”所も、しっかりと、確実に
捉えてしまっていた。

「―――ぁ」

 ごぶっとヒノの口から血が漏れた。紅い血――人間と同じ色。
 瞳孔の開いた凄絶な表情のまま、シンはヒノを抱え込んだ。
 女医が何も気付かずに立ち上がり、元来た道を戻り、院内に戻っていく。

「・・・・あー、やっぱ、手術後の一服が一番旨いわ、ね・・・・!?」

 風が吹いた――突風。髪が棚引き、頬に一筋の水滴を感じた。

「・・・・雨?」

 振り向く――そこには、何もいない。誰もいない。

「・・・・気のせいかな、何かいる気がしたけど。」

 そこにあるのはただの漆黒。
 ただ、いつも通りの日常がそこにあった。

「・・・・さむっ。」

 女医が身体を震わせ、戻っていく。
 月だけが全てを知っているように輝いていた。


 ――川面に見えるのは満天の星空と満月。月明かりが辺り一帯を照らし、世界全てを白く染め上げていた。
 風が吹く。風には少しだけ春の香りがした。冬の風とは違う暖かさが、そこには在った。
 大きな木の下に佇む影が二つ。
 白いスーツ姿の男――ヒノ。腰から下は切断され存在しない。腰の切断面と胸に空いた洞から金色の
粒子をまき散らし、男は静かに空を見ていた。
 それは、凄惨とも言える姿とは対照的な表情だった。
 黒いコートを着た男――シン・アスカ。表情は無い。何も浮かべずに川に映る月を眺めていた。ただ、
そこに在るだけの――抜け殻と言う訳でもない。ただ、現実を噛み締めるように。ともすれば弾け飛んで
しまいそうな自分自身を維持する為に。
 背もたれにしていた木に立てかけた“裏切りの大剣(アロンダイト)”が月光を反射し鈍く光っていた。 

「・・・・少し、いいですか。」

 口調は滑らかに――見た目の凄惨さとはまるで繋がらない静かで穏やかな声音。
 それはシンがよく知る――付き合いが短いせいで何も知らないに等しい――ヒノの声だった。

「ああ。」
「・・・・あの子は、私のこと、何て言ってました?」
「お父さんは、来ないのかって言ってたよ。」

 ――だから、お父さんに会いたい。会って元気づけて欲しい。お父さんはきっと大丈夫ですよ”って
答えてくれるから。
 シンの脳裏にミノルの顔が思い浮かび――それだけだ。浮かび上がっただけで、何も思わない。思え
ない――思って良いはずが無い。

「そう、ですか・・・・そうか、ミノルは私をお父さんと呼んでくれてたんですね。」
「呼ぶに、決まってる・・・・あの子にとって、あんたは、ずっとお父さんのままだ。」

 その言葉に驚いたのか――きょとん、とヒノが眼を丸くしてシンを見ていた。

「何だよ、おかしなこと言ったか、俺。」
「い、いえ・・・・そんなこと、言われるとは思わなかったから。」

 苦笑するヒノに目を向けた。青い目――紅い目や金色の目はそこには無かった。あるのは、柔和で人の
良い純粋な瞳だけ。

「・・・・あんたは。」

 息を吸い込み、ゆっくりと言葉を吐いていく。
 一言一言を吟味するように――そして、一言一言に色々なモノを詰め込んでいくようにして。

「・・・・“お前”は、あの子にとっちゃ、お父さんなんだよ。ずっと――誰が、何て、言ってもな。」

 言いながらに後悔する。何様のつもりなんだ、とシンは自分自身を殺したくなった。
 敗者に勝者が掛ける言葉が無いように――殺した側が殺された側に掛ける言葉など何もない。
 掛ける言葉は全て、偽善であり、感傷であり、同情であり――つまるところが自己満足。そんな程度の
意味合いしか持てないのだから。

「・・・・お前は、あの子のお父さんなんだよ、今でも――これからも、ずっと。」
「・・・・そうか、ミノルは私をお父さんと思ってくれているんですね。」

 そう言って、ヒノは、

「それなら――良かった。」

 憑き物が落ちたかのような微笑みを浮かべて、

「本当に、あの子を、喰わなくて――良かった。」

 ――死んだ。

「・・・・ヒノ。」
「・・・・」

 返事は無い。死人が返事を返すことは無い。存在しない。在り得ない。
 断ち切られた切断面から零れる光の粒子――全身が光の粒子となって消えていく。風に吹かれ、光の
粒子は舞い散って、空へと散って消えていく。
 後に残るのは、葉や枝に絡まったのか光の粒子の残滓が枝や幹に残った、その一本の木だけだった。
 静寂が支配した月世界。
 手を伸ばせば届きそうなほどに大きく輝く月と、春の到来を予感させる風。
 季節の変わり目――二つの季節が混在する、繋ぎ目。

「・・・・」

 シンの右手が地面を叩いた。
 一度や二度では無い、何度も何度も何度も何度も、魔力を使うのではなく、ただ力だけで殴り続け――皮が
剥けて血が滲み腫れ上がって、痛みで拳の感覚が無くなるくらいに殴りつけて。

「・・・・馬鹿は、俺だ。」

 小さく、か細く、呟く。
 左肩の痛みと共に傷そのものが消えていた。全身を襲う倦怠感はあるものの、動けないと言う程ではない。
 傷ついた右拳から上がる蒸気。その勢いはこれまでと違って弱さすら感じさせるもの。徐々にその効力が
弱くなっているのだろう――それでも、消えはしない。
 “力”を使えば使う程に、化け物に近づくと言う特性――自分が支払った代償。誰にも知らせていない
代償。自分が背負わなきゃいけなかった代価。

「止まらなきゃいけなかったのは――俺じゃないか。」

 止められなかったなんて言い訳だ。
 止まらなくてはならなかったのだ。
 気づいていたなら――例え、それが剣を突き立てる寸前であったとしても、止めなくてはいけなかったのだ。
 なのに、自分は止まることも出来ずに――あるいは止めることすらせずに、“殺した”。
 震える身体。涙は流れていない――流す理由など無い。流して良いはずが無い。
 呼びかけは届いていたのだ――殺す必要などどこにもなかった。少なくとも、あの瞬間、ヒノと言う
知性は本能を凌駕し抑え込むことに成功していた。
 けれど、殺した。殺してしまった。

「あいつは、止まってたんじゃないのか。」

 呟きが空気に融けて消えていく。
 シンは動けないまま、木を背もたれにして――茫然と夜を見上げていた。


「・・・・全くどこほっつき歩いてんでしょうね。」

 唇を引くつかせながら、呟いた。

「怒んないの。また喧嘩する気?」

 苦笑しながらフェイトさんが呟いた。

「べ、別に私は喧嘩なんてする気は・・・・そんなことよりフェイトさんには何て言ってたんです?」

 コンロの前に立って、鍋を掻き混ぜながら、金色の髪を後方で纏めた山吹エプロン姿の女性――フェイト・
T・ハラオウン。
 私の着ている白色のエプロンとは同じデザインの色違いだ。ちなみに私――ギンガ・ナカジマも料理の
時は髪を後ろで纏めている。

「夜には帰るって聞いてたんだけどねー。」
「・・・・何してるんでしょうね、シン。」

 テーブルの上に身を乗り出して、寝そべった。
 外は快晴。綺麗な月が輝いている。
 こんな日は夜道を散歩でもしたい――そんな気分の良さそうな月夜の晩だった。
 なのに、彼がいない――焦がれて会いたかった彼がいない。
 もう何日も会っていないから――少しだけ寂しかった。

「まあ、心配しなくても帰ってくるよ。」
「・・・・まあ、そうですよね。」

 時計を見れば時刻は10時20分。
 今日の料理は自分が作ると言って譲らないフェイトに全てを任せて、私は料理の手伝いはしつつも、殆ど
何もせずにずっとテレビを見ていた。
 長旅で疲れている私を気遣ってくれているのかもしれない――この間の喧嘩のこともあると思うけど。
 シンはまだ帰らない――フェイトさんが言うには少し遅くなると言っていたらしい。
 少し、不安だった。多分それはここ数日間会っていなかったからだと思う――思えば、こんなに顔を会わ
せないことなんて何年も無かったのだから。

 どこに行ったのかも分からないし、何をしているのかも分からない。
 別に初めてのことではない――私立探偵なんて言う仕事をしていれば、連絡を入れられない時なんて、
無い方がおかしい。
 けれど――何かが引っかかっていた。
 こんな、何かしらのイベントがある日は、必ず帰ってくる人だから余計にそう思ってしまう。
 そうやって、物思いに耽りながら、クイズ番組を見ているとフェイトさんが声をかけてきた。

「あ、ギンガ、ちょっとお使い頼まれてくれる? お醤油切れてるの忘れてて。」
「あ、いいですよ。」
「時間が時間だから、コンビニでいいからね?」
「はーい。」

 答えて、コートを羽織る。最寄りのコンビニまでは歩いて5分の距離――綺麗な夜空を見たいと思って
いたから、散歩がてらにちょうどいいかもしれない。
 靴を履いて、ドアノブに手を掛け、外に出る――身体がぶつかった。誰かが扉の外に立っていた。
 目を向ければ、そこには、朱い瞳と黒い髪の男――会いたかった人、シン・アスカがそこにいた。

「・・・・シン?」

 声をかけるも返事は無い――様子がおかしい。
 見れば、その姿はいつもとはまるで違っていた。
 どこもかしこも傷だらけの黒いコート。
 頬には切り傷――頬だけでは無く全身に残る傷痕。
 表情は――陰鬱そのもの。まるで昔に戻ってしまったみたいに――不安を感じて、言葉をかけた。

「・・・・何かあったんですか?」

 返事は無い。
 言いたくないのか、言えないのか――目を合わせ、その瞳を覗き込む。
 瞳孔が開き釣り上った眼。
 何かを堪えるような、耐え忍ぶような――誰かを守れなかった時に、彼が良く見せる表情。

「・・・・教えてください、シン。」
「・・・・なんでも、ない、です。」

 小さくか細く呟いて彼は否定する。何か辛いことを背負っているのが丸分かりの表情。
 隠しているつもりなのだろう。けれど――私たちにはそんなものは通用しない。

「嘘ですね。」

 その手を握り締めた。酷く冷え切った両手。触れ合うことで、シンの表情が変化する――瞳に涙が滲んで
いくのが見える。

 ほら、やっぱり――そんな仮面は通用しないんです。
 
 多分、私たち以外の誰かなら、シンはきっと仮面を被って隠し通せる――それこそ、誰にも気づかせずに
普通に生活を送れる。
 実際、そういう生活を彼はしていたのだから。けれど――私たち相手にそんなことはできない。そういう
関係を育んできた。そんなことは許さないと何度も伝えてきた。
 手を離し、彼の頬に這わせる――潤む朱い瞳。

「・・・・馬鹿。泣きたいなら、泣かなきゃ駄目ですよ。」
「・・・・・っ。」

 その言葉がきっかけになったのか、彼の朱い瞳から――涙が毀れていく。

「っ・・・・っぐ、・・・・えっぐ、う、あ。」

 嗚咽を鳴らして、涎を垂らして、鼻水を垂らして――子供みたいでみっともなくてカッコ悪い――けど、
世界中の誰よりも愛おしい泣き顔。

「・・・・本当に、馬鹿なんだから。」

 シンは嗚咽を漏らすだけで何も言わない。
 それどころか俯いて涙を流す顔を逸らして見せようともしない。袖で涙を拭い、それでも涙が止まらず
に――だから私はその背中に手を伸ばした。
 見せたくないと言うのなら、見せなくてもいい。
 ただ、彼に自分の体温を重ねたくて――泣きじゃくる彼を包みこんであげようと、そう思って。
 抱き締める。私の胸に埋まるくらいに力強く。
 貴方は一人じゃない。貴方には私とフェイトさんがいる――そんな常識のような事実を思い出させる為に。

「ギンガ、さん・・・・!?」

 シンが私の肩に手を当てて、離れようとする――少しだけむっとした。
 この期に及んで一人になろうとするシンが悲しくて、彼の離別を許さないとばかりに、力強く、その身体を
抱き締めた。
 一人で泣くには少し小さすぎる背中がそこにあった。
 嗚咽を止められない癖に、どこまでも全てを背負いこもうとする馬鹿な人。

「逃げないで、シン。」

 背中に回した手を後頭部へ――涙や鼻水で服が汚れるのなんて気にならない。
 そんなのはどうでもいい――それで汚れると言うのなら構わない。
 彼の頭を胸に抱きこんだまま、玄関の壁に背中をもたれ掛けさせた。
 互いに顔は見えない。吐息が絡み合うような近さなのに――見られたくないならそれでいい。だけど離さない
と言う意思表示。

「・・・・泣いて、いいですよ。」

 優しく囁いた。
 涙は分かち合えない――けれど、その代わりに体温を分け合って、彼が思いっきり泣けるように。

「・・・・っぐ、く・・・・うっ、く・・・・!!」

 彼の手が私の背中に回り――強い力で抱き締められた。
 そして、堪えようとして、それでも止められなくて溢れだす涙。

「あっ・・・・えぐっ・・・・あ、あああああ」

 25歳と言う年齢にしては余りにも幼い泣き方――いや、違うか。どれほどに年を取ろうとも、男の泣き顔
なんて一生変わらない。
 少なくとも――この人は一生変わらない。初めて会った時からずっと今もあの時のまま。
 聞きたいことはある。
 何をしていたのか、どこに行っていたのか、どうしてそんなに傷だらけなのか、どうしてそんなに泣いているのか。
 どうして、何も言わないのか――いつも寂しさを感じてしまう。けれど、それでも――例え何を言ったって、
この人はきっと何も言わない。
 この人は誰よりも馬鹿みたいに意地っ張りで、一度決めたことは何が何でもやろうとして、失敗しても、諦め
きれずに、何度も繰り返す――そんな分別の無さにこそ私とフェイトさんは愛しているのだから。

「泣いて――それで、流しましょう。」

 かける言葉は何も無い。
 けれど、それでいい。
 そんなことを思って――私はずっと彼の頭を撫で続けた。慈しむように、愛おしむように、守るようにして。
 喧嘩をしたことも、彼が何も言わないことも、全てを涙で流してしまおう。
 ただ、その涙を流させるままにする――それだけが私の想いの証なのだから。

 ――そうして、全てが、日常に収束する。

「うわ・・・・美味しいところ取られちゃった。」

 シンの泣き声が聞こえた――反射的に、玄関を覗くと、泣いているシンがギンガに抱きついていた。
 子供のように、嗚咽を鳴らして――何となく入り込めそうに無い雰囲気があった。
 溜め息を吐いて、呟く。決意――というよりも、少しだけ悔しさがあって。

「・・・・いいもん、また今日も潜り込むし。」

 そんな風に呟き、私は料理に戻った。
 ――そうして彼らは日常に舞い戻る。


「・・・・咲いたのか。」

 満開の桜がそこに咲いていた。
 一つだけ外れたところに植えられた――仲間はずれのような桜。
 小さな子供が、そこにいた。
 桜を見上げて、不思議そうに眺めている。

 ――桜が舞う。散っていく。その命を散らして消えていく。

 子供はその場で不思議そうにその光景を眺めている。
 桜が命を使い切るその瞬間を。

「・・・・じゃあな。」

 呟く言葉は一言――別離(ワカレ)の言葉。

「シン? どうしたんですか?」
「ギンガー!シンー!早く早くーー!!場所とれたよーー!!」
「今、行きますよ―――!!」

 立ち止まるのは少しの間だけ。
 シンにとってその場所はそんな程度――別に、大切な思い出では無い。けれど、忘れてはいけない想い出。
 過ぎ去っていく想い出。けれど、此処を通る度に自分は何度でもそれを思い出す。
 人生なんて後悔ばかりだ。後悔ばかりを積み上げて人生は連なっていく。
 想い出にはいつも後悔ばかりが混じっていて――後悔の混じらない想い出なんてどこにも無い。
 季節が過ぎても忘れられない後悔。それでも積み上げることを止めないまま、自分は明日を行きていく。
 多分、それはシンの胸に今も――そして、ずっと刻まれ続けていく。
 桜は咲き誇り、その下に眠るアイツは今も笑っているのだろうか。

 悲しさも後悔も全ては辛い想い出。
 けれど、やらなければ良かったと言う後悔だけはそこにない。
 どんな結末であろうとも――選んだ選択に背を向けずに生きていく。

 また、新しい季節が始まる。

 ――それは、誰かの涙を止める為に走り続ける一人の男の物語。

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