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空想垂れ流し それは舞い散る桜のように vol.1

それは舞い散る桜のように vol.1

SOWW番外編
魔導探偵シン・アスカシリーズ
~それは舞い散る桜のように~


 歩き続けていて――ふと、気付いた。

「・・・・咲いたのか。」

 満開の桜がそこに咲いていた。
 一つだけ外れたところに植えられた――仲間はずれのような桜。
 小さな子供が、そこにいた。
 桜を見上げて、不思議そうに眺めている。

 ――桜が舞う。散っていく。その命を散らして消えていく。 

 子供はその場で不思議そうにその光景を眺めている。
 桜が命を使い切るその瞬間を。

「・・・・じゃあな。」

 呟く言葉は一言――別離の一言。

「シン? どうしたんですか?」
「ギンガー!シンー!早く早くーー!!場所とれたよーー!!」
「今行きますよ。」

 立ち止まるのは少しの間だけ。
 自分にとってその場所はそんな程度――別に、大切な思い出では無い。けれど、
忘れてはいけない想い出。
 過ぎ去っていく想い出。けれど、此処を通る度に自分は何度でもそれを思い出す。
 人生なんて後悔ばかりだ。後悔ばかりを積み上げて人生は連なっていく。
 想い出にはいつも後悔ばかりが混じっていて――後悔の混じらない想い出なんて
どこにも無い。
 季節が過ぎても忘れられない後悔。それでも積み上げることを止めないまま、
自分は明日を行きていく。

 ――それはある冬の物語。どこにも行き場の無いある選択の物語。


 喰らう。肉を喰らう。骨を喰らう。髪を喰らう。内臓を喰らう。
 ばり。
 めき。
 ぐちゃ。
 ちゅる。

「ああああああああ」

 それは鬼だった。
 金髪の髪を棚引かせた鬼。破れ切った服の残骸を身に纏い、付近一帯の地面に
散らばる幾つもの肉――人型のソレを喰らう喰らう喰らう。
 骨を砕き、肉を引き裂き、血を啜り――喰らう。喰らい続ける。 
 ソイツには知能と言うものが一切無かった。 
 生まれ落ちた時からソイツはただ喰らうことしか出来なかった。
 だから捨てられた。
 けれどソイツにとってはソレが一番幸せだった。
 喰らうことしか出来ない――喰らうことしかしない。
 獲物を追い詰め喰らう。食物連鎖の頂点に位置し、食物連鎖の円環の中に組み
込まれた自然の摂理の一部。
 ソイツにとってはそれが一番幸せだった。  
 考えることもしない。だから悩むことも無い。だから迷うことも無い。
 ソイツにとって世界は喰えるか喰えないかの二元論だ。
 喰って喰って喰って喰い続けて――ソイツはそれで幸せだった。
 他には何もいらなかった。 

 ―――ソイツは、その時、完全だった。

「た、すけ、て」

 声が聞こえた――いや、ソイツにしてみれば獲物の発した音、か。
 ソレはソイツにとって聞きなれない音だった。
 獲物が発する音とはまるで違う音――ソレは言葉と言うモノだ。叡智の結晶そのものだ。
 昔――もうどれくらい前になるのか分からないが、昔に聞いた音に近い。 
 生まれ落ちた場所。
 真っ白な場所――そこで聞かされた音と同じだった。
 だから、ソイツはそこに寄って行った。
 そこには獲物がいるだろうし、何よりも――興味があった。
 この山にそんな声を出す獲物はいない。
 興味、というよりは、未知の確認と言う方が近いかもしれない。
 ソイツに興味などと言う知能は無いのだから。
 
「だ、れ」
「・・・・」

 そこにいたのは――小さな、獲物だった。その周辺に散らばる幾つもの肉に比べれば
大きいモノの――決して、食べがいのある獲物という訳ではない。
 食物連鎖の頂点に位置するソイツにとって、その小さな獲物は喰うには値しないモノだった。
 だから、興味は直ぐに消えた。
 ソイツが喰いたいのはそんな小さな獲物ではなくもっと大きな獲物だったから。
 その小さな獲物の周辺にはソイツがこれまで見たことも無いモノが幾つも転がっていた。
 砕け散った白いモノ――骨。 
 千切れ切った紅い薄いモノ――皮。 
 そして皺だらけで紅いモノ――脳。
 ただ、それを口にする。
 いつも頭蓋骨は固いので口にはしていなかった――だから、その中に何があるのか
なんて知りもしなかった。
 ソイツはその時、産声を上げた。 
 喰らうことしかないソイツが初めて感情を持った瞬間――その皺だらけの紅いモノは
旨かった。
 それまで食べた肉や骨が冗談に思えるほどに旨かった。
 旨さによって、その付近に幾つも存在する紅いモノを口に運ぶ。

 ――ウマイ。  
 ――うまい。
 ――旨い。

 一つ一つの味がまるで違う。
 一つは甘く、一つは苦く、一つは辛く。 
 狂ったように、頭蓋骨を砕いた。中の脳を啜り出し喰らい続ける。
 旨かった。
 旨かった。
 旨かった。
 そうする内に――脳髄の奥に不思議なナニカが出来ているような気がした。
 紅いモノを口にすると、霞がかって喰らうことしか考えられなかった意識がハッキリと
してくる。赤みがかった視界が透明になっていく。
 紅いモノを口にする度に、それまでは当然と思っていたことへの疑問が湧き出ていく。
 疑問は際限無く溢れ続けていく。
 疑問が消えていく。
 疑問が疑問で無くなっていく。
 また疑問が生まれる。
 一つの疑問が二つの疑問を作り、二つの疑問が四つの疑問を作り、四つの疑問が
八つの疑問を作り――疑問と疑問の無限連鎖。
 いや、それは疑問ではなく知性と言ってもいいのかもしれない。

「オマエ」

 ソイツは――生まれて初めて言葉を発した。
 脳を喰うことで知性が生まれたのか、ソイツの意識はそれまでとは急速に違う
方向へと変化していった。

「・・・・オマエ、ナニシテル」

 言葉は未だたどたどしい。 
 けれど、その小さな獲物――子供にとっては、自分以外の言葉など初めての
ことだった。
 少年の目からは血が流れていた。痛いのか瞳を閉じたまま、地面をさするよう
にして歩こうとしていた。
 ぴちゃ、と手が紅い液体に触れた。少年はそれが何かも分かっていない。
 びちゃ、と手が白い骨に触れた。少年はそれが何かも分かっていない。

「お、おじさん、誰?た、助けに来てくれたの?」
「タスケ、ル?」

 会話と言うモノをソイツはその時初めてしていた。 
 自分以外の個体との意思の疎通――通常の生き物ならば絶対に行っている所業。
 生き物の性質――命の本質とも言えるソレをソイツは初めて行った。 
 思えば、ソイツはその時初めて生まれたのだろう。
 その少年と出会うことで――その少年の付近の脳を喰らうことで、ソイツは
初めて意識を持った。喰らう以外の行動を覚えた。 
 だから、それが始まりだった。
 終わりの始まり。
 絶望する為に、存在する始まり。
 決して抗えない運命への没入。

 ―――誰も悪くは無い。ソイツが喰らうのは人食いの鬼である以上は必然であるし、
子供が声を掛けるのも必然であるし、ソイツが知性を持ったのもまた必然。
 ここにソイツがいなければ、ここにその白い何か――飛行機が落ちなければ、
子供が死んでいれば、ソイツが子供を喰ってしまえば。

 それらの仮定は全て無意味だ。
 観測されなかった――選択されなかった選択肢はいつだって、虚空の中へと
消え去っていく。 
 世界とは観測されることで確定する。
 同じように、イフの世界などと言うものは存在しない。
 それらは全て観測されなかった選択肢――世界である。

 けれど――もし、その奇跡が生まれ落ちたならば、何も起きなかった。ソイツは
これまで通りに鬼のままだった。

 ――だから、これは必然によって紡がれる物語。物語とは常に必然によって紡がれる。
 ソイツが知性を得たことは必然であり、子供がソイツに言葉を掛けたのも必然。
 そして――この物語の顛末もまた必然。
 それこそが、運命。必然によって紡がれる神の見えざる手である。

 ソイツは少年を見つめる。
 喰らおうと言う気は既に無い。
 ソイツにとって少年は――小さな獲物から興味の対象へと変化していた。


 いつものように起きる。
 傍らに温かさ――というよりも柔らかい。
 こうふにゃっとぽよぽよっと柔らかい。

「・・・・あー、もうなんで毎日こうなんだ。」

 毒づきながら右手を引き抜く。柔らかさと温かさが消えて、冷気を感じる。

「・・・・フェイトさん、朝ですよ。」
「うにゅ・・・・あとごふん」
「五分も待ったら、ギンガさんが包丁投げてきますよ。」
「だーいじょーぶー、じりょくではじくからだーいーじょーぶー」

 大丈夫じゃねえ。まずその発想が大丈夫じゃねえ。

「どこの仮面ライダーなんだ、あんたは!! いいから、早く起きてください!!
こんな風にもぐりこんでるのバレて、こないだ酷い目にあったの忘れたんですか!?」

 叫びながらばさっと布団を取り上げる。
 現れ出でた肢体は、何かもう凄い。

「うにゃあ・・・・」

 パジャマ姿で眠る金髪赤目の美女――胸はボン、腰はキュッ、尻はボン。
 しかもパジャマはサイズが合っていないのか、胸を押し上げ、そのやわらかな双丘を
包み隠す黒い下着が思いっきり自己主張をしている――バチンとボタンが外れた。瞬間、昔のコミックに
出てくる番長みたいに思いっきり胸――というか黒下着――が前面に押し出されていった。
 ぷるるんと言う擬音を出して跳ねる胸と言うものをその時初めて見た気がする。
 いやそれ以前にボタンを弾き飛ばす胸なんて初めて見た。

「・・・・ありえねえ。」

 ごくり、と唾を飲み込む。さもありなん。
 今彼の目の前に展開されているその肢体は“凄い”のだ。
 女性の艶やかさと無邪気さ――時々小悪魔だが――が凝縮されたような肢体。
 マスクメロンではなくICBMなのだと自分で言うだけのことはあるその胸。
 そして――絹のように滑らかな下腹部。
 そしてその更に先には隠れているのか隠れていないのか分からない黒下着――誘蛾灯に
群がる蛾のようにして手が伸びる――寸前で我に返り引っ込めた。

「・・・・いやいや待て待て、朝から何をするつもりなんだ、俺は。」
「ええ、本当に朝から何をするつもりだったんですかね、シンは。」

 後方から突然声がした。眼が見開いた。
 心の底から驚いた。びっくりした。
 全身が総毛立つ。脳髄で鳴り響くレッドシグナル――危険信号。
 ゴゴゴと言う擬音すら聞こえてきそうなほどの圧迫感。

(っ――!?)

 反射的に振り向けば、そこには圧迫感の源がいた――そして、やらかしたことに気づく。

「おはようございます、シン。外はいい天気ですよ?」

 包丁を持ったエプロン姿のギンガ・ナカジマが笑顔で立っていた。
 良い笑顔と言えばこれ以上無いほどに良い笑顔。
 きらりと光る包丁が眩しい。眩しすぎる――つーか怖い。怖すぎる。何でこの人は
包丁を振り上げてるんだろう。
 とりあえず――どう見ても怒っている。眼がヤバイ。かなり怖いことになっている。

「あ、あはは、うん、そうですね、おはようございます、い、いや、ほら、良い朝ですねー」
「そうですね。あ、そう言えばシン、こんな日に何ですけど、昨日も言いましたよね?」
「へ?」
「フェイトさんは月水金で私が火木土だって。日曜日は三人だって。ローテーション
乱したら、折檻だって。」
「あ、いや、あの、これは、フェイトさんが――」
「うーん、シン、駄目だよ、そんなプレイは・・・・ほ、本当はいやなんだけど、シンが
どうしてもっていうなら・・・・こ、こんなサービス滅多にしないんだからね?」
「キャラ変わってるから!!何で寝言でそんなにキャラ変わってるの!?なんでツンデレ!?
フェイトさん、そんなキャラじゃないでしょ!?」
「うふふ、あは、出しちゃえ。」
「出しちゃえじゃねえええええ!!!起きてますよね!?絶対起きてますよね、それ!?
・・・・って、何で拳振りかぶってんですか、ギンガさん――!?」
「この、ド変態―――!!!」
「ちょ、誤解だから、絶対これ違うって・・・・ぎゃあああああああ!!!!」

 それはいつも通りの日々の連続。 
 気がつけば、そこにある日常。
 シン・アスカは今日も概ね平和だった。


「・・・・つまり、フェイトさんのお…じゃなかった、胸に見とれてそのまま下まで眼がいった
挙句パン・・・・下着を脱がそうとしたと?」

 行儀よくお茶碗を右手で持ち、白米を口に運びながらギンガが呟く。
 二回ほど言い直しているのは、はしたないとでも思ったからか。
 おっぱい=胸。
 パンツ=下着。
 確かにどことなく卑猥だ。おっぱいは特に。
 そんな馬鹿なことを考えながらシンはテーブルの上のおかずに箸を伸ばしていく。
 テーブルの上に並ぶ幾つかのおかずは焼海苔、ホウレンソウのおひたし、卵焼き――定番の
メニューである。

「・・・・こんな日に、朝からなんて破廉恥なことを。」
「いや、だからしてないですって!! 脱がすも何もちょっと眼がそっちに向いただけですよ!?」

 必死に弁解するシン――なんで朝からこんな絶対零度の視線を受けなければいけないん
だろうか、と頭が痛くなってくる。
 昔はこうやって弁解するなどとカッコの悪いことだと思っていたが――自分がその立場に
なれば別である。
 男女の喧嘩の際にはとにかく謝る。まず謝る。何はともあれ謝る。
 腰が低いとかカッコ悪いとか言う奴も世の中にはいるだろうが、シンの性格上、ここで
逆切れすることは無理だった。

「あはは、眼は向いたんだ?」

 にこやかに笑いながらご飯をぱくつく金髪の女性――フェイト・T・ハラオウン。 
 ICBMもかくやと言わんばかりのおっぱいを持つ女性である。
 この場に漂う緊張感など気にしていないのか、恰好は先ほどのまま。どこぞの特攻服の
ようにパジャマを着こなしている。部屋着である黒下着にYシャツ一枚と言う出で立ちよりも
更に露出の多い格好である。
 殆ど変態だ――いや、嫌いじゃないけど。

「・・・・いや、眼だけですよ、眼だけ。あんな格好で寝てれば誰だってそうなりますよ。」
「ふふふ、そっか、そんなにシン、私に釘付けになっちゃったんだ・・・・照れちゃうなあ。」
「だから、釘付けとかなって無いですから!! 単に眼がそっちに向いただけな訳で!!」
「シン、ご飯飛ばさないでください。」

 表情一つ変えることなくギンガの声が食卓を穿ち抜いた。

「ぎ、ギンガさん・・・・怒ってます?」
「怒って無いですよ――シン、今日、何の日か分かりますか?」
「・・・・節分でしたっけ? それともお雛様? 聖王教会の記念日でも無いし……。」

 びきっ、と擬音を起こしてお茶碗にヒビが入った。

「ぎ、ギンガさん、お茶碗が・・・・」
「お茶碗がどうしたんです? 白米が入ってるって言いたいんですか?当然です。
朝食です。白米なくして何がミッドの朝食ですか。ライスイズビューティフルって
言葉を知らないんですか、シン?」

 喋っている間も、びきびきっと茶碗にヒビが入っていく。
 利き手では無いはずの右手の握力のみで茶碗が割れて行く。
 びきびきびき、っと。

「そ、そうですね、ライスイズビューティフルですね。」

 そう返答した瞬間――彼女のお茶碗のヒビ割れが止まり、ギンガは一つ溜め息を吐いた。
そして、手際良く自分の茶碗や取り皿、箸を片づけて、

「……ごちそうさまでした。」

 小さく、呟き、そのまま立ち去っていく――振りむいた。

「シン、今日が何か分かってますか?」
「今日?」
「もう、いいです。」

 こちらを一瞥することも無い。

「なんであんなに怒ってるんだ・・・・?」
「……シン?」
「……何ですか、フェイトさん。」
「本当に今日、何の日か分かんないの…?」
「……今日?」

 そう言われても――正直分からない。
 フェイトはそんなシンを見て、溜め息を吐くと苦笑する。

「まあ、最近シン忙しかったから、仕方ないかもしれないけど……思いだしたら、
ギンガに連絡してあげるんだよ? 女の子はそういうの大事なんだから。」
「? は、い?」

 そう言ってフェイトは自分の分の食器を洗い場のギンガの元に持っていく。
 それを受け取ると蛇口を捻り、水を出して、洗い物を始めるギンガ。その後ろ姿を
眺めながらシンは思った。

(……ああなると長いんだよなあ、ギンガさん。)

 溜息を吐きながらシンは白米を急いで口に運ぶ。以前怒らせた時は三日ほど口を
聞いてくれなかった。
 別にフェイトが布団に入り込むと言うのなら、日常茶飯事なのだが――今回は
シン自身がやらかしている。
 出来心とは言え、フェイトの肢体に見惚れたのはまずかった。
 ローテーションを守っていないのもまずかった――仕事が長引くと守れなくなる
ことも多くなる。
 とはいえ、どうしてそれでここまで怒るのかも分からない。
 いつもはこんなには怒らない。 
 慣れた訳ではないだろうが日常茶飯事のように布団に潜り込むフェイトにいちいち
怒っていては仕方ないという、そんな感じだった――と少なくともシンはそう思っている。
 だからだろうか。少しだけ納得できない。だから余計に落ち込んでいく。
 何か――ズレているような気がする。
 ――何の日。
 何の日なのだろうか。
 何かぽっかりと頭の中に穴が開いたように、その何かが分からない。

「……はあ。」

 気が重かった。
 別に自分は悪くない――いや、大筋で見て悪いのは分かるが――と思っているのに、
何か後味が悪い。
 それはそんな気の重さだった。


「変態やな。」
「変態ね。」
「……俺、お前にだけは言われたくないんだけど。」

 今日のランチの仕込みをしながら開店前だというのにさも当然のようにカウンターに
座っているフェスラ――ドゥーエに向かって呟くシン。
 変態と言うならいつもコスプレ紛いの格好をしている彼女も大した違いは無い。
 ちなみにフェスラと言うのは偽名だ。
 ナンバーズの名前は表に出すといささか都合が悪いということで、以前使っていた
フェスラ・リコルディの名前をそのまま使用している。

「何よ、私のはイメージ戦略も見越した営業用よ。あんたみたいなオッパイ星人の相方
やってるあの子と一緒にしないでほしいわね。」

 オッパイ星人の相方――あまりと言えばあまりの言いようだが言い返せない。
 実際、シンがあのオッパイに見惚れたのは確かである。

「……はあ。」
「ふふん、自分の彼女くらい大事にせんとあかんよ?」
「……まあ、そうなんですが。」

 呟きながらも仕込みの手は休めない。
 仕込み――と言っても簡単なモノだ。サラダの準備とフライの準備、パスタの準備、それとピラフ。 
 時間のかかる仕込みは前日の内に終わらせてあるので、それほど仕事がある訳でもない。
 どんよりとしたシンの顔。この世の終わりが来たとでも言いたげな顔。
 そんなシンを見ながら、はやてが含み笑いをしながら口を開く。

「その顔はギンガがどうしてあんなに怒ったのかが分からん言う顔やな。」

 にやにやと言う笑顔――また溜め息を吐く。
 はやての問いに関してはシンも思っていた。
 いつもは、あれほどには怒らない。
 だから、どうしてか――それがどうしても気になる。

「忘れてるんよ、君は。」
「忘れる……?」
「……ああ、そういうこと。」

 はやての言葉にドゥーエが納得したようにクスクスと笑い出す。

「そりゃ怒るわよねえ、この日を忘れてちゃさ。」
「せやけど、ギンガも乙女ちっくやなあ。そんなんで怒るとか。愛されてる証拠やで、シン?」
「ど、どうも……?」

 忘れている――何を忘れているのだろうか。
 ギンガは“今日が何の日か”と言った。
 フェイトは“思いだしてね”と言った。
 はやては“忘れている”と言った。
 ドゥーエは“この日”と言った。

(誕生日――じゃない。忘れてない。忘れる訳無い。じゃあ、何だ、付き合い始めた日か?
いや、それはもっと先だ。記念日関係で行くと――あとは)

 いくつかの可能性を頭の中に思い浮かべていくシン。
 クリスマス――性夜だった。酷かった。忘れるか、あれ。
 節分――年のことを聞いたら吹き飛ばされた。ビリビリと感電した。
 お雛様――来月だ。というかミッドチルダにまで何であるんだお雛様。
 除夜の鐘――はやてに無理を言ってその日は仕事を休ませてもらい、三人で温泉に行っていた。
 端午の節句――此処まで来るともう関係ない気がする。

「……全然分からないんですけど。」
「何で分からんのかが不思議なんやけど。」
「街とか歩いてれば普通に分かると思うんだけど。」

 声を揃えて言い放つはやてとドゥーエ。

(……街を歩いていれば分かる?)

 街中は――今、どうなっている?
 イルミネーションで飾り立てられた冬の街。
 時折雪が降っては大渋滞するもののそれ以外に特に――

「あ。」
「……ようやく分かったようやな。」
「遅っ」

 呆れ果てたはやてと馬鹿にしたようにシンを見つめるドゥーエ。
 確かに気付かない方がおかしい――まあ、仕事で忙しくそれどころじゃなかったって
いうのも本音ではあったのだが。
 カレンダーを見る。今日の日付は2月14日。それはつまり――

「今日ってバレンタイン?」
「正解。」
「……あんた、ほんっとに分かんなかったの?」
「……仕事、忙しかったんだよ。」
「浮気調査やろ、それ。」
「いや、まあ」

 然り。はやての言う通りである。
 世間体から離婚を渋る旦那――浮気している確率が非常に高い――との離婚を成立させる為に、
浮気の証拠を掴んでほしいという依頼だった。
 依頼自体は滞りなく成功した。というかこんな依頼は初歩の初歩だ。迷子になった子猫を
探すことの上くらいの依頼である。
 他人の私生活を覗き見しているようであまり気分のいいものではないが。

「ああ、それで缶詰になって、気づかなかった訳ね。どれくらい張り込んでたの?」
「三日。」

 シンは話を続けながらも仕込みを終えた材料を冷蔵庫に収めて行く。
 開店まではまだ結構な時間がある。はやてが先程自分に入れてくれたコーヒーを手に取り、
二人の元へと戻っていく。

「一人で?」
「……浮気相手の調査なんてあの二人にやらせる訳無いだろ?」

 何を言っているのかとシンはドゥーエに告げるとコーヒーに口をつける。
 開店までは残り三十分ほど。始まってしまえば何だかんだと忙しく、気がつけば夕方と
言うパターンが多いので遠慮せずに休んでおく。

「……あの子らもウブなネンネじゃないんやから、やらせてもええと思うんやけど。」
「相変わらず、過保護ね、あんた。」
「あんたらな……間違って何かあったらどうするんだ? あんなラブホテルだらけのいかがわしい
ところにあの二人が行ってみろ。変な毒牙にかかったらどうするんだ。」
「いや、毒牙にかかる前に仕留めるやろ、あの二人。」
「毒牙持ってるのはあの子たちでしょ、常識的に考えて。」

 酷い言われようだった。 
 しかも大体合っているので言い返すことも出来ない。

「……言い過ぎだと思うんですけど。」
「あんた、自分が浮気したらどうなるか分かってるでしょ?」

 考えるまでも無い。
 殴られて吹き飛ばされて泣いて喚かれながら市中引き回しにされて、部屋に戻って折檻と
説教を喰らう。当然その間は平謝りし続けることになるだろう。
 以前浮気調査をしていて掛けられた浮気の疑惑――全くの疑惑である。
 冗談交じりにドゥーエが呟いた一言を彼女たちが本気にして暴走した結果だ――の際に
そうなったので、実際はもっと酷いことになると思われる。

「……ごめん、思い出したくない。」

 思い出すと辛くなった。

「……うん、ごめんなさい。」

 素直に謝るドゥーエ。
 流石にあの時はドゥーエも本気で悪いと思ったのか、菓子折り持って謝りに来ていた。
 まさか、自分の冗談でそこまでの騒ぎになるとは思いもよらなかったに違いない。
 誰だってそうだ。普通はそう思う。
 思いだしたら、背筋がブルブルと震えてきた――とはいえ、そんな恐怖があろうとなかろうと
浮気することなどあり得ないことではあったが。
 他人から見れば面倒なことこの上無いヤンデレ風味どころかヤンデル味な彼女たちだが、
そんな彼女たちに心底惚れ抜いているシンにしてみれば、彼女たち以外の女性に惚れるとか
手を出すとかはあり得ない。天地がひっくり返って空から神様が降ってきてもありえない。

「話、戻しますけど――てことはギンガさんが怒ったのって、俺がバレンタインすっかり忘れて、
フェイトさんとよろしくやってたって思ったから、ですか?」

 そういうとはやてが両手を胸の前で組んで、喋り出す。くねくねと身体を動かしながら話す様子は
芸人がやるようなオカマキャラを彷彿とさせる。

「折角気合入れたバレンタイン。せやけど、肝心の愛しのダーリンは朝っぱらから前日ベッドイン当番で
ある自分を放っておいてもう一人の嫁さんとイチャイチャくんずほぐれつでした。いやー、私なら
切れるね。絶対切れるわ。愛するが故に切れるね、これ。」
「あんたも愛されてていいわねえ?」

 余計なお世話だと内心で呟く。
 二人揃ってニヤニヤニヤニヤとシンを見ている――天井を眺める。思い浮かぶのは今日の朝。
 確かにいつもの怒り方では無かった――と、思う。

(……やっちまった、なあ)

 覚えていなかったのは不可抗力だ――とは思うが、彼女が楽しみにしていたなら、覚えている
べきだった。
 カレンダーを見るくらいは別に大した作業じゃない。疲れていると言ってもカレンダーを見る
くらいの余裕はあって然るべきだった。

「……ギンガさんって今日、ここ来ないんですよね?」
「うん?ギンガは今日実家に帰るって言ってたよ?」
「うわ、寄りによってそんな日に喧嘩したの、あんた。」

 言われてみればそんなことを言っていたような気がする――コーヒーカップに目をやる。褐色の
液体がそこにあった。
 そこに――彼女の顔が浮かぶ。浮かび上がった顔はとんでもなく怒っていて泣いていて、
般若の形相だった。

 “実家に帰る。”

 既婚者――まだ結婚はしていないが似たような者だ――にとっては割と重い言葉である。
 大抵喧嘩した夫婦が冷却期間を置く為にする行為ではあるが、行くところまで行った場合、
二度と帰ってこない場合すらあり得る。
 無論、そんなことは普通は無いし、傍から見ていれば単なる痴話喧嘩にしか過ぎないの
だが――当事者にとっては死活問題だ。その言葉は結構グサっと来たりする。

「……帰ってこなかったら、どうしよう。」
「とりあえず、電話するのがええと思うよ。」
「そうそう、さっさと連絡しときなさい。取り返しつかなくなるわよ?」

 きゃっきゃ、きゃっきゃと楽しそうに喋り続ける二人を尻目に――シンは落ち込んだ。相当
落ち込んだ。
 デバイスを使ってギンガに通信――繋がらない。怒っているのか、電源を切っているのか、
圏外なのか。
 はあ、と溜め息を吐く。
 溜め息を吐く度に幸せが一つ逃げていくという。だったら、自分は朝から今までどれだけの
幸せを逃したのか、そんな馬鹿な考えが思い浮かんだ。


「・・・・やっぱり、遠いな、ここ。」

 時間にして数時間――クラナガンからエルセアまでの距離だ。
 転送ポートなどというモノは管理局に所属する魔導師だからこそ優先的に使える訳で、管理局に
所属していない人間――魔導師を含む――は使えない。ここに来るまで飛行機と電車を乗り継ぎ、
ようやくたどり着いた。
 目の前には日本家屋――祖父の代から改築に改築を重ねたモノらしい。日本家屋、と言っても
本格的なモノではない。
 現在の第97管理外世界の日本という国の一般的な住宅と似ている――とはやてが言っていた。
 そこはミッドチルダ・エルセア地方。陸士108部隊ゲンヤ・ナカジマの生家。
 私――ギンガ・ナカジマにとっての実家である。

「ただいまー。」

 がら、と扉を開けようとして鍵が閉まっていることに気付く。

「・・・・誰もいないの?」
 
 鍵の隠し場所である玄関横の植木鉢から鍵を取り出し開ける。
 玄関に靴は無い。
 この時間に到着するとは言ってあるから、いるはずなのだが――ふとスリッパの横に置いて
ある紙に気付く。
 手に取り、四つ折にされたソレを開き、中の文字を読む。
 “スバルと買い物に行って来る。直ぐ戻る”
 そう、書いてあった。

「・・・・買い物、行ってる、か。無用心ね、鍵くらいかけとけばいいのに。」

 言って、靴を脱ぎ、スリッパにつま先を入れる。
 感じ取る匂い――懐かしい匂い。
 一部塗装がはげた木材の壁。漆塗りの床。コンクリートの気配を感じさせない木造家屋。
 何もかもが皆懐かしい――何度戻っても実家というものは郷愁を促してくる。
 そのまま、すたすたと歩き、二階の自分の部屋に向かう。
 荷物は殆ど無い。日帰りのつもりでここに来たからか、持ってきたのは外出時にいつも
持ち出している鞄程度だ。
 ドアノブを回し、中に入る。
 机、椅子、本棚、ベッド――私が幼い頃から使っている幾つかの家具。今ではもう使って
いないモノ。
 未使用期間の長さを表すように、机の上には埃が溜まっている。
 テーブルにも同じように埃――主のいない部屋をわざわざ掃除する人間はいない。それに
ここの家主は家に帰ること自体が多くない。掃除すらされないのはそのせいもあるのだろう。

「・・・・ちょっと掃除するかな。」

 鞄を机の上に置き、部屋を出る。階段を下りて掃除道具――チリトリとホウキ、雑巾を
持って二階に戻る。
 部屋に入って、掃除を始める――真剣にやればかなりの時間がかかるだろうが、眠れる
程度に埃を払い、床を拭いていく。
 十数分もかからずに掃除は終わる。掃除道具を片付けるついでにストーブを物置から引っ張り
出して、部屋に持っていく。
 綺麗になった床にストーブを下ろして、ベッドに腰掛ける。
 ぶる、と身体が震えた――そういえば、今日は大寒波が来るとか行っていた。
 気温はマイナス3℃。寝転がっていれば風邪を引くような温度だ。直ぐにストーブの
スイッチをつける。

「はあ。」

 温かい風が流れ出す。ストーブ、というよりもファンヒーターか。
 ベッドに身体を預ける。冷たさを感じ取り、どこか湿っぽい――不快感よりも気だるさの方が強い。
 長旅の疲れ――数時間程度で長旅というのもどうかと思うけど――と今朝の喧嘩のせいだった。
 気が重い。

「・・・・」

 懐から取り出したデバイスを眺める。
 着信は――無い。飛行機の中では通信できなくなるのでその間に連絡はあったかもしれない。

「・・・・出る、かな。」

 通信を繋げる――数回のコール音。繋がらない。
 何故、と思ったが時計を見て、その疑問が氷解する。
 既に午前11時を過ぎている。これから喫茶店やがみは忙しくなる時間だ。通信を切っている
のだろう。

「・・・・バカじゃないの、私。」

 呟きが室内に木霊する。
 デバイスをベッドの上に投げ出し、机の上に置かれた自分の鞄――その中から白色の紙箱が
滑り落ちる。

「あ・・・・」

 呟いた時には既に遅い。
 起き上がろうとした時には、その紙箱は床に向けて落ちてしまった。
 落ちた瞬間、べちゃ、と音がした――慌てて紙箱を拾う。

「・・・・なんで持ってきちゃったんだろう、私。」

 それはチョコケーキ。私が皆で食べようと思い作って置いたケーキだった。
 アパートを出る際に殆ど衝動的に持ってきてしまって――それで、落として、崩れてしまった。
 本当の形状はハートの形。けれど、今は落ちた衝撃で三つくらいの欠片に分かたれて潰れて
しまっている。

「はあ・・・・」

 溜め息だけが木霊する。
 デバイスが振動する――連絡が入っている。
 通話機能をオンにして、耳に近付ける。もしかしたらシンかもしれない。そんな一抹の期待
に願いを寄せて――

「もしもし、シンですか!?朝はごめんなさい、私も――」
『・・・・はあ、素直になるのが遅いよ、ギンガ。』

 聞こえてきた声は、聞き慣れた女性の声。

「フェイトさん、ですか・・・・?」

 力が抜ける。

『シンかと思った?』
「・・・・ええ。それで何の用ですか?」
『んー、今日ギンガ帰ってくるのか聞いておこうと思って。ほら、夕飯の支度とかもあるし。
結構遅くなるって言ってたでしょ?』
「ああ・・・・そっか、私、今日、夜もこっちで食べてくるって言ってましたね。」
『そうそう。だから、確認しておこうと思ってね。』

 いつも通りの彼女だ。まるで何も変わらない。

「・・・・食べてきます。それに――多分泊まって来るでしょうし。」
『・・・・そっか、分かったよ。』

 会話が途切れ、一拍の間が開く――何も言わなければここで会話は終わってしまう。
 聞きたいことがあった。とても大事な、大切なことが。

「あ、あのフェイトさん、シンはあの後――」
『凄く、落ち込んでたよ、シン。』

 ずきん、と胸に痛み。

「怒って、ませんでした?」
『怒るよりも驚いてたのかもね。いつもよりギンガの怒り具合が酷かったから。』

 それで落ち込んでいた――再び、ずきん、と胸が痛い。 
 黙り込んでしまう自分。そんな私を気遣うように、フェイトさんが申し訳なさそうに呟いた。

『・・・・私もごめんね。いつもの癖で、つい。』
「・・・・いやもうそれに関しては慣れてるからいいんです。・・・・けど。」

 そう、慣れている。殆ど真っ裸で布団に入り込むことが癖と言う生活に慣れてしまった自分も
どうかと思うが。
 それ自体はいつものことだし、それで怒るのだって予定調和みたいなもので本当に何かを
しようなどと思ったことは無い――単なるじゃれ合いみたいなモノ。
 コミュニケーションみたいなものでしかない。
 だから――あそこまで怒ることなど無かった。そんな必要は無かったのだ。
 けれど、

『けど?』
「・・・・バレンタインのこともあって」
『忘れてたもんね。』
「・・・・はい。」

 また、黙りこむ――視界に崩れてしまったケーキがあった。
 悲しい。せっかく作ったのに、せっかく楽しみにしていたのに――

(私の、馬鹿)

 毒づいても言葉は出ない。悲しくて――気が重い。
 数秒ほどの沈黙。
 それを破るようにフェイトの声が届いた。少しだけ優しげに。

『ギンガ、今日帰ってくるんだよね?』
「・・・・遅くなるかもしれないですけど。」
『それならさ、二人で一緒に渡そうか?』
「・・・・チョコを、ですか?」
『うん。一緒に渡して、それで今日は三人一緒にいようよ、朝までずっと、さ。それで終わり
にしちゃおうよ、ね?』

 優しく諭すように彼女は告げる。

「・・・・うん、そうですね。」
『皆一緒にいる方が楽しいんだし――それに私たちは三人で一組の恋人なんだから。そっちの
方が性に合ってるんだよ、きっと。』

 こういう時、いつも彼女は自分やシンとの仲裁を受け持っている。
 何だかんだと駄目人間なシンと、嫉妬深く暴走しがちな自分。
 そんな中で彼女は――フェイトさんは不思議なほどに笑顔だ。柔らかい、女性の私から
見ても綺麗な笑顔。
 彼女はそんな笑顔のまま、こうやって私たちを繋げてくれる。
 私たち二人だけなら上手くいかないことも多いが――いつも彼女はこうやって、姉の
ように皆を諫めている。
 三人で一組の恋人――彼女がいつも言っていることだ。
 自分達のような特殊な関係は、多分彼女のような人がいるから成り立っているんだと
思う。

『それじゃ、今日は精力増強メニューでシンをブーストしておくね。ギンガがどうしてもって
言ってたってことにして』
「精力増強・・・・。」

 言葉の意味を考えて、少しだけ脳髄がピンク色に染まる――慌てて、その空想を振り払う。

「い、いやいやいや!!そんなこと、一言も言って無いですよ、私!?そんなこと一言も
言って無いですからね!?」
『・・・・駄目?』
「可愛い子ぶっても駄目です!なんで私がそんな欲求不満みたいになってるんですか?!」
『的を射てはいると思うけど。』
「射てないですよ!!どっちかっていうと清純派です!!大体そういう役割はフェイトさん
じゃないですか!!」
『・・・・いや、ギンガの方が凄いと思うよ、私より。こないだシンと二人っきりになったギンガ
観察してたら、まさかあんなことやそんなことやこんなことまで――あ、お鍋噴きこぼれてる。じゃ、切るね』

 ぶつん、と電話を切られた。
 ぶるぶると体を震わせて、液晶画面を見続ける。

「か、観察って・・・・う、嘘に決まってるわ、そんなのある訳・・・・ある訳・・・・」

 無い、と言いきれない。
 あの人ならやりかねない。何かそんな気がする。

「ひぃっ!?」

 デバイスがぶるぶると震えていた――今度は誰だ、と思い液晶に目をやる。

「フェイトさんから、メール?」

 テキストメッセージがフェイトから送られている。
 メールボックスを開いて、テキストを読む――大雪警報が出てるけど、明日帰れるのか?、
とあった。

「大雪・・・・警報?」

 窓を開けて外を見る。
 空が真っ白に染まり、雪が降り出していた――朝、ここに来る時は快晴だったのに、僅かな間に
世界は白く染まっていた。
 道路を見ればもう20cmほど積もっているのではないだろうか。窓から見える世界は真っ白。
 それは建物や道路が真っ白と言う意味では無い。視界が真っ白なのだ。舞い散る雪が光を反射し、
視界を阻害し、結果、白く白く染まっていく世界。

「・・・・これは、帰るの、無理かも。」


「警報はともかく、他は全部冗談なんだけどね。」

 流石にギンガとシンの情事をのぞき見るほどデリカシーが無い訳でもない。
 大体どんなことをシテいるかくらいは予想がつくが――それは言わないのが華だろう。
 ちなみに、こうやって、二人っきりになるローテーションを組んで、まだ日は浅かったりする。
 実働2週間目である。
 それまでは3人一緒がデフォルトだったのでこれも成長と言えば成長か――どう考えても普通は
逆なのだが。
 バルディッシュをテーブルの上に置き、椅子の背もたれに体重をかける。
 そのまましばし身体を休める。
 今しがたバイトから帰ってきたので身体は疲れている。
 体力的には管理局で勤めていた時の方がきついものはあったが――だからと言って、ウエイトレスや
スーパーの店員が疲れないと言う訳ではない。
 どんな仕事であれ、疲れは残る。疲れない方がどうかしている、と思う。

「・・・・ちょっと、寝る、かな。」

 呟いて、瞳を閉じた。
 全身の力が抜けていく――シンが帰ってくるまではまだ数時間ある。少し眠っても問題はない。
 眠気は直ぐに訪れた。弛緩する筋肉。視界が狭まる。
 眠りにつく――寸前で、先ほどのギンガとの電話を思い出す。僅かに覚醒。
 口を開き、声を漏らす。

「かっこつけすぎたかな。」

 吐息と共に吐き出される声。
 自分でもあれは少しカッコ付け過ぎたと思っていた。
 だから、最後にあんな冗談を言った訳だが――別に意識してこんな役回りにいる訳でもない。
 本音を言えば、シンには自分だけを見てほしいという想いがあった。誰だってそうだと思う。
 好きな人には自分だけを見て欲しい――そう思うのが当然だ。
 けれど、ならば、どうして、そうしないのか。

「・・・・どっちも・・・・好きだから、だなあ。」

 多分、どちらをも、自分は好きなのだと思う。
 男性として、大切な人として――シン・アスカを愛している自分。こちらは恋愛。
 友達として、家族として――ギンガ・ナカジマを愛している自分。こちらは親愛。
 そのどちらをも優先させた結果として、この関係に落ち着いた。シンも同じように――彼の場合は
恋愛感情のみだが――二人を求めてくれた。
 ギンガは――納得していると思う。多分、私と同じような気持ちだと思う。

「――ずっと、一緒に、いる、か。」

 いつか、シンが自分達に告げた言葉。
 ずっと一緒にいよう。絶対に離さない。
 そう言って彼はその願いを貫き通した。
 自分は――嬉しかった。
 いつも誰かを求めていた。
 誰かがいなければ生きていけなかった。今なら分かる。エリオやキャロを引き取ったのもそんな
感情だった。
 そんな私に――自分自身をくれたシンを私は愛している。

 愛があるから、私はギンガやシンの姉でいられる。シンの女としていられる。
 愛があるから――私は揺るがないモノを手に入れた。
 愛が無ければ―――多分何も変わらなかった。
 胸の内にあるのは彼や彼女への優しい気持ちと――燃えるような焔の感情。あの日からずっと
燃え続ける愛と言う名の焔。

 恋愛であり、親愛であり――私を支える強い気持ち。

「・・・・今日は、カレーにしよ。」

 冷蔵庫の中身を記憶の中で確認し、瞼を閉じていく――幸せを実感する。

「好きだよ、シン、ギンガ。」

 呟きは空気に溶けて消えていく。
 こうやって、二人の姉のようにして――けど、二人でいる時は女になって、時には三人でいても
女になって。
 そんな生活を自分は幸せに思っている。
 そんなことを考える自分を人は笑うだろうか。

 ――多分、笑うだろう。弄ばれていると。二股だと。

 けど、それがどうしたと思う。
 幸せなんて所詮自分の心による言葉遊びなのだ。
 自分が幸せだと思えば、その時いつだって幸せになれる。
 だから――

「・・・・幸せ、だなあ。」

 こんなにも自分は幸せに生きている。たとえそれが幸せだと思い込んでいるだけの錯覚だと
しても、自分はその錯覚に一生を委ねると決めたのだから。


「・・・・真っ白だ。」

 真っ白だった。
 店を出た瞬間に思った感想だった。
 テレビでは近年稀に見る大寒波が襲来しているとのこと。
 クラナガンでこれだけの大雪だと言うのなら、エルセアはどうなっているのだろうか。

「・・・・ギンガさん、帰ってこれるのか?」

 不安が口を吐いて出た。
 あの後、ギンガから連絡はあったようだが――生憎、仕事中だった為、気づかなかった。
 そのまま、今に至るまで彼女と連絡は取っていない。自分から連絡しようにも繋がらなかった。
 デバイスを忘れていったのかもしれない。

「・・・・帰ろ。」

 小さく呟き、階段を登り、部屋への帰路に就く。徒歩で3分もかからない距離――大雪だと
しても変わらない。
 背筋は丸まって猫背になり、表情は暗く落ち込んでいる。
 誰か慰めてくれとでも言いたげな――実際、そんな想いはあった。自覚することで情けなさが
一段と加速していく。情けない。
 部屋の扉を開けようとして、鍵がかかっていることを思い出す――羽織っていた黒いコートの
ポケットから鍵を取り出し扉を開ける。
 がちゃり、と音を立ててドアノブを回す。

「・・・・はあ。」

 溜め息を吐き、靴を脱いで、スリッパに履き替え、そのまま居間まで歩いていく。

「あ、おかえり。」

 金髪に朱い瞳、服装はいつものワイシャツとジーパン、そしてエプロン――いい加減いつもの
白ワイシャツ黒下着の格好に慣れてきていたせいか、いつもと違うその格好に違和感を覚えた。

「・・・・ただいま、フェイトさん。」

 声は暗く、落ち込んでいる――声くらいは元気にしろと言いたい。これでは慰めてくれと言って
いるのと同じだ。
 せめて声の調子だけでもいつもに戻そうと気を取り直す。
 彼女はこちらの声の調子には気づいていないのか、台所で料理をしている――匂いからして、
恐らくカレーだ。
 付近を見渡す。室内には、今、フェイトと自分――シン・アスカしかいない。
 彼女は、いない。まだ帰っていないのだろう。
 どんよりとした曇天のような気持ちがまた自分の心を覆い尽くす。
 そんなことは無い。そんなことは無い。と自分で自分を鼓舞するが、一度落ち込んだ気持ちは
そう簡単には戻らない。

(・・・・ホントに帰ってこなかったら、どうしよう。)

 フェイトが声を掛けてきた。こちらに背を向けたまま――料理を作る手は休めないまま。

「ギンガなら、今日帰れないって。雪で電車が止まったみたいだよ。」
「そ、そうなんですか?」
「うん。それにこの大雪でどこかで事故が起きたらしくて、帰ってくるのは明後日になるって言ってた。」
「明後日・・・・そんなに酷いんですか。」
「んー、まあ、それ以外にも色々、かな? ゲンヤさんとスバルの休暇も明後日までらしいから、
それに合わせて帰ってくるつもりなんだろね。」

 フェイトが小皿を取り出し、カレーをその中に少しだけ乗せて、舐め取る。

「ん・・・・ちょっと薄いかな。」

 彼女が手を伸ばし調味料に手を伸ばす――伸ばした先には黒い液体。ソイソース――いわゆる
醤油である――があった。それを一回しカレーに入れて、もう一度味見をする。

「最後に隠し味に・・・・これ、と。」

 火を弱め、コトコトと煮えるカレーが入った鍋から離れると、今度は別の棚へ移動し、あるモノを
取り出す。
 手にはインスタントコーヒーの粉。それをほんの少し、一つまみだけカレーに入れ、再度の味見。

「よし、完成。」

 火を止めて、蓋をする。ご飯の準備をするつもりなのだろう――その時彼女と眼があった。
 その眼には、どこか咎めるような輝きがあった。

「・・・・フェイトさん?」
「シン、ちゃんとギンガに電話した?」

 声の調子は穏やか。なのに切られるような衝撃を感じた――違う、後ろめたいだけだ。
 繋がらなかった。仕事中で取れなかった。仕事が終わった後も繋がらなかった。
 不可抗力、という言葉が思い浮かぶ。
 その通り、これは不可抗力。自分がどうやったとしても電話は繋がらないと言う事実そのもの。
 けれど――それは気分の良い言葉では無い。決して、気持ちの良い言葉では無い。

「・・・・それが、繋がらなくて。」
「さっき、ギンガから電話あったよ。シンが落ち込んでるんじゃないかって心配してた。」
「心配って・・・・」

 心配しているというのなら、自分だってそうだ。
 彼女が怒っているんじゃないか、悲しんでいるんじゃないかと心配に思っていた。

「ギンガも、言いすぎたって後悔してる。電話して、安心させてあげるも夫の役目じゃないかな?」

 優しく諭すように、彼女が告げて、そのまま冷蔵庫から既に作っておいたのだろうサラダを取り出し、
テーブルの上に置く。
 続いてカレーが入っている鍋とは別の鍋を火にかける。多分その中にスープ――コンソメとカレーの余り
の野菜で作ったモノだ――が入っているのだろう。
 彼女が料理をする時、いつもこのスープが出てくる。
 簡単明快な野菜スープ。ただコンソメと塩だけのシンプルな味付け。初めて作った料理なのだと彼女は
言っていた。彼女にとっての定番の料理なのだと。
 自分はそんな彼女から目を離し、懐のデバイス――昔使っていたモノの模造品を手に取っていた。
 インテリジェンスではない、ただのアームド。
 ストレージでないのは、昔使っていたデバイス――デスティニーが元々はアームドだったから
という理由から。
 展開すれば、昔のように大剣や銃、砲身の形状を取ることは出来るが、今ではPDA――携帯端末
代りにしか使っていない。
 ストレージでも何ら問題は無い。それどころか、持っている必要さえ無い。
 それでも未だにデスティニーと同じ形状のデバイスを持っているのは――感傷だろう。
 そのデバイスの液晶画面を見つめて、顔をあげて呟いた。

「フェイトさん、ちょっと夕飯待っててもらえますか?」
「ちゃんと仲直りするんだよ?」

 彼女はこちらを見ることなく、とんとん、と包丁を叩き、以前はやてからもらった漬物――彼女が
自分で漬けているモノだ――を切りながら、そう言った。

「分かってますよ、フェイトさん。」
「よろしい、それじゃ、出来たら呼ぶからね。」
「はいはいっと。」

 デバイスを手に、シンはそのまま部屋の外へと出て行く。
 靴を履き、外へ――真っ白な世界だ。
 風はそれほど強くないからか、深々と空から雪は降り積もるだけ。
 降り積もり、降り積もり、世界を白く染めて行く。
 デバイスを手に、ギンガへと連絡を繋げる。
 発信音――数度のコール。ここらへんは電話と同じ感覚だ。

『・・・・も、もしもし、シンですか!?朝はごめんなさい私も言いすぎてて――』

 電話に出たのは、当然ギンガ・ナカジマ。
 早口で一息に一気に喋り出す。言葉の中身は殆どが謝罪で埋め尽くされている。

 ――言いすぎたって後悔してるよ?

 その通り、なのだろう。彼女も彼女で後悔していたのかもしれない。
 自分と同じように、あんなことしなきゃ良かっただのと考えて、今日と言う日を悶々としていたの
かもしれない。

「ギンガさん。」
『は、はい!?』

 一拍の間が開いた。息を飲む感触――告げる。

「バレンタイン忘れてて、ごめん。」
『・・・・それは。』
「だからさ、今日はギンガさん、いないけど――帰ってきてから俺達だけでバレンタインしませんか?」
『私たち、だけ?』
「・・・・その時は、俺も、何か作っときます。別に、男があげちゃ駄目って日でもないでしょ?」

 少しだけ突飛な言葉。
 詭弁に過ぎる意味合い――けれど、返答は笑い声。朗らかに笑う、彼女の声。

『・・・・ふふ、屁理屈上手ですね、シンは。』
「む、何か褒められてる気がしないんですが。」
『ふふ、どっちなのかはシンに任せます。』
「シン、出来たよー。」
『フェイトさん?』
「ああ、フェイトさんが夕飯出来たって呼んでるんです。」
『・・・・じゃあ、電話もこれで終わりですね。じゃ、最後にシン。』
「はい?」
『大好きですよ、シン。』

 そう告げて、こちらの返答を待たずに彼女が通話を切った。
 ツーツーと鳴り響く音。
 口元に笑みが浮かぶ。自然とニヤけてしまう。胸がドキドキして、頬が真っ赤になるのが分かる。
もしかしたら、あっちも今頃顔を真っ赤にしているのかもしれない。

「・・・・完全、ストライクだったな、今の。」

 そんなの言われなくても分かってる。だけど、声に出して言われるともう駄目だ。
 踊りだしたいくらいに嬉しい。分かっていても――分かっているからこそ、こんなバカみたいな
確認が嬉しくて嬉しくて仕方が無い。
 室内からまたフェイトの声。デバイスを懐に収め、声の方向に歩いていく。
 室内に入れば、フェイトが夕飯の準備を終えて既に椅子に座っていた。

「仲直り、出来た?」
「・・・・まあ、うん、出来ました。」

 にやけそうな自分を自制する――フェイトはこちらをニヤニヤしながら見つめている。
 バレているのかもしれない――いや、多分バレている。きっと、今の自分はそれくらいには嬉し
そうにしているんだろうから。

「それじゃ、夕飯にしようか。今よそうから待っててね。」
「ああ、分かりました・・・・そうだ、フェイトさん。」
「ん? 何?」
「ありがと、ございます。」
「ふふ、どういたしまして! はい、これ、今日の夕飯はカレーライスとサラダとスープ。
付け合わせは漬物!」

 満面の笑顔でカレーライスを自分の元に渡し、フェイトもまた自分の分をテーブルの上に置いた。
 夕食が始まる。どうでもいいような歓談を繰り返して――胸に温かな気持ち。
 暖炉のように、熱するのではなく暖めるような優しい炎。どこにでもある優しげな心象。
 どうでもいいようなことを積み重ねて、どこにでもあるありきたりな幸せを噛み締めて、バレン
タインの夜が過ぎて行く。

 これは、三人一組の恋人たちが自らの幸せを噛み締める物語。
 ――ここまでは。


 運命とは残酷だ。
 世界中の何もかも全て救われるとは限らない。
 誰もが知っている当然のコト。誰でも理解できる当たり前の事実。
 救われる者と救われない者は必ず並列する。
 選択によって世界は枝分かれしていく。
 程度の差はあれども、それは即ち、救われる、救われないと言う事実への枝分かれと言っても良い。
 全ては選択だ。選択することでこそ、ヒトは幸せを掴み取る。

 ――だが。

 救われた者と言うのは本当に救われたのだろうか。
 救われない者と言うのは本当に救われなかったのだろうか。

 外部から見て救われたと断じても――当の本人が救われなかったと考えれば、それは救われて
いないのも同じこと。
 外部から見て救われなかったと断じても――当の本人が救われたと考えれば、それは救われた
のも同じこと。

 ゆえに、運命の必然として、絶対に何があろうとも救われない存在がいたとしても――当人が、
もし救われたと感じれば、それは救われているのだ。
 絶望とは希望の別の読み方でもある。その逆もまた然り。

 選択することでこそ、ヒトは幸せを掴み取る――そこに不幸の欠片が存在しないなどとは言えない。
 如何なる選択であろうと、ヒトの幸福は不幸と並立して存在するのだから。

 ここよりこの物語は、化け物たちの交錯の物語に成り替わる。
 どこにも辿り着かない選択。その果てに辿り着くであろう絶望。
 その中で――ただただ幸せを求めて生きる化け物と、誰かの涙を止める為に戦い続ける男。
 これは、そんな二人の男の物語。


 絶叫。何かを千切る音――発生する窪み=眼球の搾取――溢れ出る赤(アカ)朱(アカ)紅(アカ)。
 手に取った白い球体=中心に黒い円形/白と黒のコントラスト――眼球をバケツに無造作に
放っていく。一つ、二つ、と。
 絶叫。視界が“消失”したことへの恐怖。
 獲物が痙攣する/絶叫する――許しを乞う懇願/怨嗟を放つ呪詛。
 黙らせる為に首を掴み、“引き抜いた”。
 恐怖に引き攣った顔と同時に、脊髄がずぶずぶずぶと粘着質な音を立てて、内部から這い
出てくる。
 獲物の動きが止まる。停止する生命。その時点で得物は食物へと変化する。
 そこにいたのは、ただの物言わぬ肉塊――原形の無い獲物。

「襲ってきた、貴方達、が悪い、のだから、私は、遠慮なく、いただきます。」

 流暢な発音で言葉を紡ぐ――その癖単語一つ一つをあまりにも正確に発音しているせいか、
どこか違和感を感じる口調。まるで覚えたての言葉を話しているように。
 腕を千切り、喰らい、噛み砕く。
 びきびき、びちびち、ぐじゃぐじゃ=咀嚼する音――既に肉塊となり果てた獲物が嚥下されていく。
 腕の次は足を、脚の次は腰を、腰の次は胴体を、胴体の次は――虚ろに窪んだ眼窩が特徴的な顔面を。
 耳を引き千切り喰らい、鼻を引き千切り喰らい、頬の筋肉を抉り取りながら喰らい――顔面が
原形を失っていく――流れる血液/流れる脳漿/鼻水/唾液――幾つもの体液が流れて行く。
 頭蓋骨が見えてきたところで、頭部を地面に向けて叩きつける――硬い殻の果物を食するのと同じ方法だ。
 一度目――まだ割れていない。
 二度目――まだ割れていない。
 三度目――少しだけひび割れている。
 四度目――焼き菓子がひび割れ砕け散るように、内部のピンク色の脳髄が見えた。
 手を入れて――入りこまないほどにその隙間は小さい。
 右手を“蜂の針のように細く鋭く、象の鼻のように細長い形状”に変化させる。
 どんなに小さな隙間であろうと蜂の針の前では途方もなく大きい。そうして、脳を、すくい出していく。
 数瞬後にすくい出された皺だらけのピンク色――脳。
 それを引き千切り喰らう。喰らう。喰らう。一心不乱に喰らう。
 喰らうごとに視界に色が戻る。
 意識が鮮明になっていく。
 自分が“何なのか”が明確になっていく。
 不確かだった自分と言う存在がそこに“在る”ことを感じ取る。

 ――ソイツは悪魔だった。誰がどう見ても断言出来るほどに徹頭徹尾、悪魔だった。

 耳にまで広がった巨大な口。
 全身の体表は赤茶けた金色の毛で覆われている。黒い毛で覆われた両手の掌部分だけが
ソイツの体表を見せていた。黒い鱗のような皮膚。
 背中に羽は生えていないが――身体を覆い尽くす金色の毛は背中の部分のみ極端に長く、
たてがみのような印象を与える。
 眼も同じく金色。
 そんな異形の化け物の口元には――人の足が爪楊枝を咥えるかのように“生えていた”。
 足を飲み込み、脳髄を嚥下した。

「・・・・はあ」

 安堵のため息――狩りが終わったからこその安堵。
 記憶――記憶が維持されていく。
 燃料(ノウ)が足りなくなって、忘れそうになっていた大切なモノの名前が保存されていく。
 オカザキ・ミノル。
 大切な子供。大事な子供。
 己が守るべき存在――己が己である為に必要な存在。
 喰らうことで己は己を保持出来る。
 目的は一つ。
 眼を放りこんだバケツを手に取った。

「・・・・早く、あの子の眼を見えるようにしなければ。」

 口調が変わった。それまでとは違い流暢な――本当に人間らしい話し方で。
 優しげな声音はそのおぞましい姿とはまるで結び付かない欠陥造形(ミスマッチ)。
 その欠陥造形(ミスマッチ)こそがそのおぞましさを加速させ――その見た目が、変化する。
 変化は一瞬だった。時間にすればコンマ5秒もかかっていないだろう。
 まず赤茶けた金色の毛が消えた。
 同時にその下にあった黒い皮膚が瞬く間に色を失い――いや、色を変えて行く。色は肌色――肌の色。
 口裂け女のように広がった口が閉じて、通常の人間の口のサイズにまで小さくなり、存在して
いなかった唇が形成されていく。
 眼の色も金色から、青色――ミッドチルダではそれなりに数の多い色合い――に変化していく。
 生まれ出でたのは裸体だ。
 だが、変化はそれだけでは無かった。
 肌色の皮膚、その内側から盛り上がるようにして、“服”が現れ、その裸体を覆っていく。
 内側から盛り上がってくるのは“服”だけではない。髪の毛、靴、ありとあらゆる人間が
着こなすモノ全てが――体内から盛り上がってきている。
 一瞬で、その悪魔は人間になった。
 その顔は、先程、ソイツが喰った人間の顔だった。顔だけでなくその全て――服装までもが。
 声だけが変わらない。先程までと同じ優しい声。
 手を見つめる。
 毛などどこにも無い綺麗な手――人間の手。 

「・・・・これで、みのると」

 呟き、笑う。優しげな微笑み――“柔和な人間の表情”と相まって、人の好い笑みとして
形成されていく。
 青と赤で彩られた、夥しい眼球が入ったバケツ――それを持って、ソイツはその場を去っていく。
 それまで、“食事”が行われていた場所に残されたのは、僅かな血痕と金色の髪の毛、
 その後に残されたモノは――“時空管理局 空士89部隊所属 二等空尉 ライン・スカイ”と書かれた
一枚の血まみれの身分証だけだった。

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 プロフィールの写真はスコットランドとイングランドの間にある町の空です。新婚旅行でネス湖行ってきましたが、ネッシーに会えませんでした。
とりあえず気合い入れて頑張ります。更新します。

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